今日は十五夜、仲秋の名月。

今年は閏月の年なので13ヶ月ある年でもあります。

なので昨年までは先月が仲秋の名月でした。



ちょうど先月を思い出せば中国にいて、満月は北京で雨のために見損ねて、

亳州へ向かう途中に下車して、河南省の商丘でのんびりと十六夜月を見ていました。

あれから一ヶ月。

日本に戻ってきて秋が深まり、想うことが日々たくさん浮かびます。

とにかく感じるのは、

まぁ気楽に行こうかな。

ということばかりです。


中国から戻ると、いつもそうですが、今回はいつも以上に大きいようです。

大事なものは、大事に。そうではないものは、それなりに。

日本ではとにかく「気を遣うこと」が多いのを思います。

今の時期フィットネス業界はどこも結構大変で、


競合し過ぎたゆえにどの企業も必死でいます(東京オリンピック招致ができなかったのは、一業界人として残念・・)



本来「気遣い」は大事なことで、人の事を思い、考えて 良くあって欲しいと考えて、自発・奉仕的に尽くすことです。

これには精神も肉体も力を使うことが多いです。

気を遣っても、人によっては、その気遣いが疲労になっていくことも多いですし、

気を遣えない・気付かない人は、たくさん気を遣ってもらっていても、


それにも不満ばかりをもらす人たちもいるぐらいです。

(人によっては、本当に心身共に一度0から全てやり直して更生して欲しいと思うときもあります)



そうしてくると、


だんだん真面目に本当に心遣いをしている人々の心身に疲労が蓄積するのだろうと、思っています。


そんな時に今までに自分が学んだ先生方は何て言うだろうか、なんて想像する時がよくあります。

老子・荘子・曹操・華侘を生んだ3700年の歴史ある街、


亳州では大らかな方々ばかりが多かったのを思い出します。



思い出した ある先生なら、きっとこういう状況だったら、

「算了、算了! 算了!!」(やめた、やめた! やめだ!!)

って大声ですぐさまに言うんじゃないかな、

なんて勝手な空想の中で思ったりすると 我ながら少し変なおかしさを感じます。



心ある人に気遣いは大事です、心無い人にも気遣いが大事です。



しかし、真面目さゆえに一生懸命で、気を遣いすぎてしまい、自分自身が人々に気遣える心が疲れ果て来たら、

心の内側で「やめた!」って言ってもいいんじゃないかな、と思います。



しかし「やめた!」「知らない」っていうのは少し冷たい気もするから、

「すみません。ちょっと今は自分の意識は、それを理解をしてあげたいと思う、範囲の外にいます」


ぐらいは許されるんじゃないかな、って思います。



(しかし・・・思いっきり「算了!」っていえないのが、自分はやっぱり日本人だな、って感じます)

やっぱり「気楽に行こう」がいいみたいです。