夏も終わりに近づいてくると、何とはなしに昔の記憶が甦ることがあります。
思えば自分が武術の道に入ったのは今から27年前の13歳、中学1年生の秋のことでした。
別に両親が武術に興味や理解があった訳ではありませんでした。むしろ逆に反対をされていました。
しかし父は中国大陸へのあこがれがあって、それを叶えてあげたい・・なんて想いもあったのかも知れません。
小学生の時は親の言う事を聞け、ということで水泳を6年間、剣道は2年生から5年間やりました。
報道でインフルエンザ騒ぎの始まりがあっても、
実は水難事故で健康な方が亡くなったニュースを見ると
我が両親はこういうことも考えてやらせたのだな、なんてことも想います。
剣道は後に武術の対練などを行った時でも応用が利いてそれも良かったとも思います。
それに日本武道精神を子供の頃に叩き込まれ、刻みこんで頂いた経験も有難く感じます。
自分が武術世界に憧れたのは格好良かったからとか、俳優になりたかったから、というのではありませんでした。
当時空手もブームでしたが、子供ながらに直感でいいな、と感じたのは、
「中国武術の達人」だったのです。
年配になってもいつも機嫌が悪そうで、顔に苦虫をつぶしたようなただ怒らせると厄介なお爺さんではなく、
深い人生哲学や洗練された技能を身軽にこなし、
何でもよく知っている「老師」の存在に憧れていたのだと思います。
実際に、この後に出会い、教授して頂いた老師は本当にその通りでした。
今になって身近な年配男性を見ると多くが機嫌が悪いのではなく、
単に心身とも体調が悪く、日本的で身勝手な人が日頃の運動不足・生活の不摂生や、
依存体質がたたり、結果的に上記のようになってしまうのが解りました。
これらはまだこれからも日本では応対せねばならない問題にもなっています。
私がとても影響を受けたのは1985年の春16歳の時に縁があって上海で武術をご指導頂き、
翌年とその次の年に来日された徐文忠老師でした。
http://ameblo.jp/yokohamabujutuin/entry-10050848557.html
(今現在お世話になりました五禽戯第57代の薫文煥老師に感じたのは、同じ雰囲気を感じたのでした)
来日された時はしょっちゅう先生の元にいました。
言葉ができなかった時は筆談でいつも為になるお話を聞かせてくださいました。
自分が中国語を独学でも勉強し始めたのは先生のお話を直接理解したいからでした。
後に老舗だった全日本太極拳協会は創立者の逝去に伴い分裂が起きてしまい、
いろいろと自己都合優先で身勝手な大人たちの事情に巻き込まれました。
先生はこの緊急事態で帰国することができなくなり、私は何もできずに途方に暮れていました。
そこへ蘇東成老師が仲立ちになってくださり、面倒をみてくださり、
無事に上海に戻れたと聞いて嬉しかったです 。
しかし、自分は非力だったのが今でも恥ずかしいです。
(今振り返れば、当時の利己的な権益ばかりを求めていた連中と
私は現在は同世代に近づきましたが、やっぱり彼らの考え方は間違えていたと思うし、
先生が求めていた人物から遠い人達ばかりだったな、と実感します)
先生は後にアメリカに招待され大活躍をされたようでした。
しかし帰国してから体調を崩され逝去されました。
今でも徐老師へのあこがれは消えていません。
いつか自分が先生のような存在になろうと決めました。
いつの日か「あこがれ」を形に。
07年の夏にお嬢様の徐淑貞老師に杭州で再会できました。
いろいろと励ましの言葉をかけて頂き嬉しく思っています。
大先輩の賈平さんともよくメールでやりとりをしています。
今は安徽省合肥市の省体育館で1階は賈平さんの空手道場があり、
その上の階が徐老師の武術学校があります。
今の自分はまだ少し力足らずですが、またいつか近いうちにいい形で交流をしたいと願っています。
それが先生方への恩返しになり、
真の日本と中国との民間交流で明るい未来への希望の礎になれれば嬉しいと思います。