07年の11月から、安徽省亳州市を訪ねるようになって、

かの地が生んだ偉大な人物として「老子」「荘子」「曹操」「華侘」にまたより深く惹きつけられています。



その「荘子」至楽篇より、

いま世俗の人々のしていることと、楽しんでいることを考えてみるのに、


私にはまた その楽しみが本当であるのか、それとも楽しみでないのか、わからない。

あの世俗の人々が楽しみにしているということを私から観察すると 


だれもかれもが群れをなしてそれに向かうありさまは、まっしぐらに直進して、


まるで夢中でとめどもなくなったかのようである。



そこでだれもが楽しいということを私は楽しんでいないが、しかしそれを楽しまないというのでもない。

はたして楽しみはあるのか、それともそんなものはないのか。



私は思うのだが、無為~ことさらな「作為:しわざ」をしない~でいて本当に楽しいのである。

ところがまた世俗の人々にはとても苦痛である。

だから最高絶対の楽しさには(世間的な意味での)楽しさはなく、


最高絶対の名誉には(世間的な意味での)名誉はない、といわれている。



世界中の「是非:良し悪し」の判断は(人様々であって)なかなか一定にすることはできない。

けれども無為であれば(私心がなく、とらわれがなくなるから)是非:良し悪しの判断を一定にすることができる。

最高絶対の楽しさで一身を安全にすることは、ただ無為で(ことさらな作為・しわざをしないで)いてこそ、


ほぼ達成できるのだ。



そのことを少し述べてみたい。

大空は無為であってこそそれによって澄みわたり 大地は無為であってこそそれによって安泰である。

そこでこの二つの無為が合わさって、万物の全てが生み出されてくる。



おぼろげでとらえどころがないが、どこからか(万物が)出てくるではないか。


とらえどころがなくおぼろげであるが、そこになにかの形があるではないか。



万物は次々と生まれて、みな無為のはたらきで育っている。

だから「天地は無為で(ことさらな作為・しわざをしないで)いて、


それですべてのことをなしとげている」と言われている。



人間のばあい、いったいだれが この無為を身につけることができるだろうか。