本名は「岡倉覚三」有名な 岡倉天心の「茶の本 The Book of Tea」(日本語訳) 

ふと、感じることがありましたので記述します。

http://www.sekiya.net/cha-no-hon/tensin/bookcha.html

その「茶の宗匠」という第7章に、こういう文があります。


宗教においては未来が我が背後にある。

芸術においては現在が永遠である。

茶の宗匠の考えによれば、芸術を真に鑑賞することは、

ただ生きた力を生み出す人々にのみ可能である。

~中略~

人は、おのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。

かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のもの すなわち芸術そのものになろうと努めた。


それは審理主義の禅であった。

われらに認めたいこころさえあれば完全は至るところにある。

千利休は好んで次の歌を引用した。

花をのみ まつらん人に山里の 雪間の草の 春を見せばや。  (藤原家隆、作)


岡倉天心は海外に出て 日本の美意識を説いた方です。 逸話も多くあって有名なものでは、

明治36年(1903年)、天心は米国ボストン美術館からの招聘を受け、横山、菱田らの弟子を伴って渡米。

羽織・袴で一行が街の中を闊歩していた際に1人の若い米国人から冷やかし半分の声をかけられた。



「おまえたちは何ニーズ? チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?」。

そう言われた天心は


「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」と流暢な英語で言い返した。

<原文>

"What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?"

"We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?"

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より



今現在日本人の多くが学ぶべきは、こういった先代の気概であると思います。

自分自身が目指しているのは「茶の湯」の精神の如く、


日本精神に中国武術運動(太極拳や気功を含む)の身体の躍動における美学や


健康効果を通じた「自性了解」の境地と防衛能力の融合をするためでもあります。



利休が好んで引用した歌。

花をのみ まつらん人に山里の 雪間の草の春を見せばや。


とありますが、私が現代的に意訳(少しくどくて申し訳ありませんが、


こうでもしないと理解してもらえないので)するには、




人々の目につく花(成果)だけに意識をおいて目立つ行為や、

利権や何でも自分本位に奪い取ってでも求める姿の浅はかさよ、

そんな事にのみ関心を持つ人たちへ言いたい、

本当に春の花が咲く時の有難みや喜びや美しさを知る人の思いとは・・


人知れず 遠く離れた山里で、寒さに耐え続けた人々が、

ふとある日に何気なく雪をかき分けた時に雪下で力強く育った草の芽が出ているのを見つけ、

もうすぐ来るであろう「春」へ今までの思いを感じ、

頑張ってきた努力の甲斐があった、みんなもよく頑張った。



暖かい春の訪れもそこまで来ているのだな・・

「花」の咲く頃は、もうすぐだ楽しいだろう。

もう少し頑張ってみよう・・



こんな純粋な気持ちを大事にする本当に真摯な人の心の在り方を、

努力もせずに楽ばかりをして、おいしい思いだけを求めている連中に教えてやりたいものだ・・



今現在は不況と嘆いている人も多いかも知れません。

大事なことは、耐えるべき時に耐え 忍ぶべき時に忍ぶことだと思います。



日本人の美学はそこにあるのだと思うのです。



人々が有頂天になり、思い上がりの心で作った時分の花を見ず。

その「彼ら」が時が流れ、悲観的になり消極的になっている中にでも、

喜びを見出し、積極的な世界を見て、いずれやって来る春に近づいて

大自然の美しい花を咲かせる原動力に心を共にする。



そこに「頑張る美学」を思い、

自分は大切にしています。

もう2週間もすれば「冬至」そこから一月半すればそれが「立春」

本格的な冬の到来を前に思うのは、この厳冬があってこそ「春」があるのです。