私と誕生日が同じで、尊敬しているのが「上杉謙信」
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我が先代の成澤家は 深谷上杉家に仕えていたと聞きました。
上杉一族は関東に範囲を広く活躍をしていました。
上杉鷹山(うえすぎようざん)1751年7月20日~1822年3月12日
九州、日向(宮崎県)高鍋の秋月という3万石の小大名の次男に生まれた。
10歳の時に上杉家の藩主「重定」の養子となる。
17歳、重定の長女「幸(よし)姫」と結婚。
上杉家は初代謙信の時は越後地方で200万石を超える収入があった。
二代景勝の時に、豊臣秀吉により会津120万石に移され、
さらに関ヶ原の戦い後、徳川家康により米沢30万石に減封された。
五代目の相続の時に、失態があり15万石に減らされた。
上杉家では藩士の数は減らすことなく、また、家の格式を重んじ、
習慣的な行事、衣服、食事、行列の時のお供の数なども固く決められたルールに従った。
財政的には大赤字の藩であった。
この慢性的な大赤字を黒字に転換したのが上杉鷹山であった。
改革のポイント
この改革は「民富」のためであり「藩富」のためではない。
民富のための改革案として「原料に付加価値を加えて製品」とする。
具体的には「織物、蚊帳、口紅、和紙、錦鯉・・・」を生産した。
武士であろうとも産業育成のために労力を提供した。
不要の組織は廃止。仕事のない藩士は城に勤務する必要はなく、好きな時に来て、好きな時に帰る。
家に帰って、産業育成の仕事をする。
上下の意識をなくし、格式よりも実用を重んじた。
愛、いたわり、思いやりを重視した。
改革の理念を「火種」と考え、火種を増やすことが改革を成功させることと示した。