私と誕生日が同じで、尊敬しているのが「上杉謙信」

http://jp.youtube.com/watch?v=bif6-OQWKxE

http://jp.youtube.com/watch?v=XJeRz4GY2Ws&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=JDVy3BgqcQg&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=fGssRZN-pq4&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=XSJUrvvaZqc&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=jv64DABOmr4&NR=1



我が先代の成澤家は 深谷上杉家に仕えていたと聞きました。

上杉一族は関東に範囲を広く活躍をしていました。


上杉鷹山(うえすぎようざん)1751年7月20日~1822年3月12日

九州、日向(宮崎県)高鍋の秋月という3万石の小大名の次男に生まれた。

10歳の時に上杉家の藩主「重定」の養子となる。

17歳、重定の長女「幸(よし)姫」と結婚。

上杉家は初代謙信の時は越後地方で200万石を超える収入があった。


二代景勝の時に、豊臣秀吉により会津120万石に移され、


さらに関ヶ原の戦い後、徳川家康により米沢30万石に減封された。


五代目の相続の時に、失態があり15万石に減らされた。

上杉家では藩士の数は減らすことなく、また、家の格式を重んじ、


習慣的な行事、衣服、食事、行列の時のお供の数なども固く決められたルールに従った。


財政的には大赤字の藩であった。

この慢性的な大赤字を黒字に転換したのが上杉鷹山であった。

改革のポイント

この改革は「民富」のためであり「藩富」のためではない。

民富のための改革案として「原料に付加価値を加えて製品」とする。

具体的には「織物、蚊帳、口紅、和紙、錦鯉・・・」を生産した。

武士であろうとも産業育成のために労力を提供した。

不要の組織は廃止。仕事のない藩士は城に勤務する必要はなく、好きな時に来て、好きな時に帰る。


家に帰って、産業育成の仕事をする。

上下の意識をなくし、格式よりも実用を重んじた。

愛、いたわり、思いやりを重視した。

改革の理念を「火種」と考え、火種を増やすことが改革を成功させることと示した。