最近よく自分の本棚を見ながら、自分に影響を与えたものを見回しながら、もう一度ひも解くことがよくあります。

東京から横浜に出てくる時に一度、


3年前に今住んでいるマンションに引っ越してからもう一回、かなりの数の本を整理しました。

ですから今本棚にあるものは私の全ての思考に影響を与えた原点だな、と思います。

その中に、フランスの哲学者 デカルト(1596~1650)
「われ思う、ゆえにわれあり」と名言を残した人物である。



彼の著作の方法序説からの引用文です。




良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。

というのも、だれも良識なら十分身に備わっていると思うので、


他のことでは何でも気難しい人たちでさえ、良識については、


自分が今持っている以上を望まないのが普通だからだ。

この点でみんなが思い違いをしているとは思えない。

むしろそれを立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、


これこそほんらい良識とか理性と呼ばれているものだが、


そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっていることだ。

だから、わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということではなく、


ただ わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一の考察をしていないから生じるのである。



というのも、良い精神を持っているだけでは十分ではなく、大切なのはそれをよく用いることだからだ。

大きな魂ほど、最大の美徳とともに、最大の悪徳をも産み出す力がある。

また、きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、


走りながら道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。



(中略)


自分を判断する場合、いつも自惚れるより疑心を抱くほうであり、

また哲学者の目で万人や様々な行為や企てを眺めると、ほとんどが無益で無用だと見えるもの、

それでもわたしは、


真理の探究においてすでに成し遂げたと思う進歩に非常な満足感をおぼえずにはいられないし、


未来にたいしても大きな希望を抱かずにはいられない。

人間の職業、純粋に人間としてなせる職業のうちに、


たしかに優れた重要なものが何か一つでもあるとすれば、


それこそわたしが選んだ仕事だと、信じたいほどである。




この文章に、今一度ふれた時に、何かまたひとつ感動を思いました。

初めてこの文章を読んでからまた十数年経ち、


今でもうなずくことができた自分を見つめてみた時に、心から「大丈夫だ!」と感じました。



今一緒にいる自分の周りの皆さんもきっと大丈夫でしょう。



力強い「縁」で繋がっている人生だと思うと、


それがまた自分への大きな勇気とやる気と元気が湧いてくるのを思います。




世の中の退廃した心を持つ人々が何を言おうとも、今の私は何も動じません。


それよりも、現在の私自身を支えて下さる皆さんにいつだっていい形で応えてみせたい、


という気持ちが強くなります。



幸福に近づきたい方々同志で力を合わせ、


世の困難のとばっちりを横目に受け流しながら 日々の努力の積み重ねを怠らずにいきます。




大いなる大自然のエネルギーの塊を人々は誰でもその存在を「神」と呼びました。

その偉大なる自然の力が、いつだって自分の味方だと実感できれば、何も恐れはなくなるように思います。



思うに、そのことゆえに、デカルトは 永遠にその努力をしていく、


その同志たちへ向かって

「われ思う、ゆえにわれあり」 と言ったのでしょう。


これは、感じる人々がいる限り 永遠に続くのだと思っています。