岩波文庫から出ている魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝をまた久しぶりに読んでみました。
これらは短い文ですが、当時2世紀前後の中国人の目からの見た、日本の様子を知ることができ、
私達の先代から また大きな学ぶことがあります。
すごいなと思うのは、これらはしっかりとした漢字でもう細かいところにも記述されていることです。
魏志倭人伝は正確には「三国志・魏志」東夷伝 倭人といいます。
自分が関心を持ったのは、ちょうど一年前に魏の国の王、曹操と華侘の故郷を訪ねに行ったことでした。
現地で感じたのは、1800年ほど前にもこの地と交易があり、
ここへも日本人が来たのだな、と思うと感慨深い想いがありました。
その中には当時の日本について興味深いことが書いてあります。
・集会や居住の坐位には、父子男女の区別はなく、人々は生来酒が好きである。
・土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
・人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。
他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
・長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
・身分の差別は守られ、秩序はよく守られ、租税、賦役を収め、そのための建物がたてられ、
国々には物資を交易する市があり、大倭(倭人中の大人)に命じて、これを監督させている。
ここで解るのは酒をもう当時から飲む食文化があり、生命への貴さと禊ぎの習慣があることで、当時から日本は既に長寿国だったことが解ります。
そして後漢書』東夷伝には
倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、使者をはるばる後漢の都の洛陽にまで派遣していた。
授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。
「漢委奴國王」と刻印されている。
この金印を国立博物館で実物を見た時には驚きました、
きれいな純金で作ることができる文化をもうその時は持っていたということです。
そして司馬遷の『史記』にもある、徐福伝説にふれています。
これは秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、
始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、
五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述がある。
確かにハイテクや通信、通商、そして通行:移動する乗り物などの進化により多くの恩恵を得ることができるようになりましたが、
本質的な生き物としての人間として思うには、現代日本人が何かとても頼りなく見えてきました。
かの秦の始皇帝が 長生不老(時々、不老不死とありますが、
私の感覚では 老いるような不安が少なくて、長生きできる=死からは遠い感覚のある状況、環境)への憧れでもあり、海産物などの食材が豊かにあり、大らかな地であったのを改めて認識できます。
こうやって歴史から見れば、既に我々の地は豊かである、ということです。
それを日々、不満や愚痴をこぼしながら疑心暗鬼で暮らす現代日本人にとって一番足りないのは「心の豊かさ」だと思うのです。
だからこそ、慌てずにゆっくり確実に努力をしていれば必ず大丈夫だと信じています。
また この3年後ぐらい経って「今のこと」を振り返れば、ああ懐かしいな、と思うことが必ずやってくるでしょう。
たとえ今が困難だと感じて、辛く苦しいことがあったとしても、
それも時間が経てば「試練」と名を変え、自分を強くしてくれるはたらきだと思っています。