日々流れるニュースと街中ですれ違う人々に思うことが生まれます。


人間の行動は、思考の表れで動く人と、ただ衝動的に場当たり的で反応している人と見た目でその違いが解ります。

思いと考えを合わせて「思考」といいますが、それはそれぞれの人の脳(心)でつくられているものです。

それは言葉に表れ、態度 立ち居振る舞いに出てきます。

そこに心地良く感じるか、受け入れ難いと思う人の「共感」は、その体をつくっている習慣で決まっている と思います。

人のからだは、日々に食べている物(それを選んだ感覚)と、自分の体を駆使する運動で構成されてきている、と自分は思います。

食べ物は、先ず原料があって 味付けされている成分があり、運動は 行うものの性質と、その特徴があります。

ただ炭水化物を固めて、焼いたり蒸したりして熱を加え

口さわりだけ心地良く感じさせるための味付けをされた食べ物しか食べなくて、

工場で作られる 水にシロップや人工的な粒粉などを溶かして加えた飲み物ばかり体に入れていたのでは、

その成分から造られた肉体と脳になっていくでしょう。


あるいは食生活の計画はなしで朝~昼は適当に過ごし 

夜だけカロリーの高いものばかりを食べて、睡眠環境も無自覚で過ごし 

その時間を積み重ねていたら その結果で体と脳はできていきます。 



運動は、ただ体を動かせばいい、というものでもない と思います。

運動哲学がしっかりして、行うことの意味と成果を得るものと、

ただやみくもに筋肉に刺激をかけて 疲れればいい、という運動の仕方にも懸念を感じます。


ものごとは何でも「質」が最も重要です。


ただ口先で心地良く感じ、ただ満腹になって 

無意識的で思いつきの行動によって 造られた身体と脳で「何ができる」のだろうか。


大都会の中の飲食の不適切さは今に始まったことではありませんが、

何時自分自身が気付くかどうかで変わるものだと思います。


「格差」という言葉には、いろいろと複雑な意味を持つ言葉ですが、

気付かぬとも自分自身に「人格」を自分で貶めていて、その差が大きくなっている、とも思うこともあります。


こんなことをしたら目立つかも知れない、受けるかも知れない、という感覚でできるものは全て短絡的な発想です。


人間は直感で感じる生き物でもあります。


時間と空間に余裕がなく、

そこから逃れたいがための「気分転換」でチョイスされてできた世界は「類は共を呼ぶ」仲間同士の慰めにしか過ぎないのです。

あまりにも多くの人々がたとえ無意味でも 繰り返される世界に没頭しすぎています。


原点を見直すことが必要だと思います。


人間という動物の必要な能力を思い、考えて実践していく時間が大切です。

食べ物は、身体が求めている必要なものを、適切な調理をして 

本当に脳と脾胃が心地良く喜べる味付けが望ましく、

運動は、現代人なら人間として通常、動かさなければならないところが 動かなくならないような気付きがあって、

良好な状態の維持と向上が自覚できて、心理面でも清々しく心地良くなれる運動をすべきです。


多種多様で複雑な現代社会で最も大切なのは、

理屈やあてのない数字だけのデータの雑感から行われてきたテクニックではなく、

大脳から得られた鋭い直感を受けた、

「実践」における「結果」と「成果」から来る「満足感」です。