菜根譚 後集37 喧騒と静寂の分かれ目

時当喧雑、則平日所記憶者、皆漫然忘去。
境在清寧、則夙昔所遺忘者、又恍爾現前。
可見静躁稍分、昏明頓異也。

時(とき)、喧雑(けんざつ)に当(あた)らば、則(すなわ)ち平日(へいじつ)記憶(きおく)する所(ところ)の者も、皆(みな)漫然(まんぜん)として忘(わす)れ去(さ)る。
境(きょう)、清寧(せいねい)に在(あ)らば、則(すなわ)ち夙昔(しゅくせき)遺忘(いぼう)する所(ところ)の者も、又(また)恍爾(こうじ)として前(まえ)に現(あら)わる。
見(み)るべし、静躁(せいそう)稍(やや)分(わか)るれば、昏明(こんめい)頓(とみ)に異(こと)なるを。

訳:

騒がしくゴタゴタして慌しく忙しい状態の時には、日ごろ記憶、覚えている事までも、みな忘れてしまう。

これに対して、さっぱりと安らかで 清々しい状態の時には、とっくの昔に忘れてしまっていた事までもありありと気楽に思い出せる。

そうして見ると、環境が静かであるか騒がしいか、あるいは余裕が有るか、無いかでは 思考の面においては天地のほどの差が出ることを覚えておくべきである。

つまり、達人はどんな時でも心に余裕を残しておかなければならない。

心の余裕こそ 達人の幸・不幸を左右する大きな要因になっていく。



人間は基本的に自分自身を基準に考えるものである、と思います。

心に余裕があれば、人を思いやる気持ちが生まれ、面倒をみてあげようという奉仕と慈しみの心を持つことができると思います。

普通 世間一般で、自分自身で精一杯なのであれば、心に余裕が生まれにくい環境になることになるのは想像ができるように思います。

スピード社会などといって人々を煽っていた風潮のお土産に、

世の慌てふためいて、やりたいようにやった先には何が待っているのだろうか、と感じることが よくあります。


人は、何時に生きているか、で行動が決まります。

「今」この瞬間にも遅れをとり続けて、過ぎ行く時間に翻弄されるか、

明日以降の未来に「今」準備を終えて、楽しみにゆっくりと待ち望むのか、

感じる 身体と精神において、

開いた眼には、何が見えるのだろうか。聞く耳には何が聞こえてくるのだろうか。

そこから話す言葉に、あるいは行動に またあるいは書かれる文字に「心」が宿っているのであろうと思います。

世に「幸」多くあらんことを願っています。