「意味」について考えてみました。
日本語では「意味」
文字通りでひもとけば
「意:おもい」に「味:あじ」と記しています。
中国語は「意思:yisi」と言います、「意思:いし」ですね。
日本語では「意:おもい」に味わうべき何かがあって、
初めて「意味」がある、とか ない、と言っています。
そこで「意味」のあるもの・ないものの違い。
それは「真心から伝えたいこと」
これがあるか、ないかだと思います。
無意味なものに、真心を込めることはできません。
意味のある「形」をしているものには全て、
作った人の「真心」がこもっています。
今や、世間を見渡せば
「無意味」な「物」「言葉」や「行動」に溢れ返っています。
目に付くものは、
「無意味」にはしゃぐTV番組、コマーシャル。
「無意味」な名前の商品、「無意味」な言葉のやりとり。
それは「意:おもい」を「味:あじ」わうことを
誰も教えてくれなかったことが現れているのかも知れません。
(つまり、それらを作る有名「広告代理店」の
人間達の知能レベル「脳力」が理解できます)
日々、大の大人から子供たちまで「無意味」な空気に漂っています。
「小人」な「大人」もたくさんいます。
だから、多くの人々が真面目で真剣に
「意味」を感じることができなくなってしまった、と言えるでしょう。
今や世界中の国から「日本」にやって来る方も大勢います。
彼らは「無意味」な世界を見ず、
この国の素晴らしさや文化に感心を持ち、
努力して日本で成功している人もたくさん増えました。
そこで、この「日本国」で
「無意味」に漂う「エイリアン」のような「日本人」
が増えました事を残念に思うことがあります。
それは一言に「教育の問題」なんて片付けられません。
それは国のせいでもなく、学校のせいでもなく、
誰かのせい、でもありません。
「一人ひとり」の
「心の在り方」と「誇りの在り方」にあるのです。
行動や言動が、
いい加減でデタラメなオジサン・オバサンたちを見て、
誰が信用できようか。
それを見た若者がダラダラとして、
身勝手な思いを胸にその日限りの生き方をする。
それが普通になってしまった。
ならば、どうすれば良いか。
「人間」の認知の仕方をはっきりしよう。
老若男女、誰でも「意味のある言葉」を話し、
「実行」しなければならない。
それから「人」を見るときは
地位とかポジションで見てはならない。
ありのままの、その「人間そのもの」を見るべきでしょう。
先ずトップに立つべき人間は
「模範」とか「規範」ということを
実行と証明をしなければならない。
できない、自信が無いのなら
その立場を去らねばならない。
人間は最終的には「理屈」では納得しないものである。
歴史的な必然性の中で「無意味」なものは、
何一つ生き残ることはできない。
人々の多くは気付いているし、求めている。
極端で派手なファッションや行動は「虚しさ」の現れである。
真の「意味のある力」と「意思の力」が、
これからゆっくりとその実力を示す時が近づいているのです。
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