かつて、ある人に
「何を考えているかわからない人」だ、言われたことがありました。
今から思うと、かって数年前に「ある改革」のために、
自分はいつも考えに考えて、
常に物事が良い方向へ向かう知恵をしぼっていました。
意見が異なる人や、受けとめたくない人にとっては、
「理解したくない」ように思っていたのを、
「何を考えているかわからない」と表現するみたいです。
自分は元々話好きで、師匠もおしゃべりな方々でした。
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その影響もあって常に意見を交わしあい、
違っていてもそれをも意見交換の大切さ、として考えていました。
人によっては、自分を保護するあまりに、
誰もが同じ意見を持っているものだと考える人もいます。
自分が満たされていないと、世のすべてが満たされていない、と思い、
常に競争社会にいて、足を引っ張ってでも、地位や権力ばかりを求める人は、
誰もが、そのポジションを狙っていると思い、
人への猜疑心から離れられません。
意見は、はっきりと誰もが、わかる形にしていなければ、
「ない」のと一緒です。
意見を言わない、感想も述べない、行動しない、
そして、自分の事をわかっている人がいない。
と嘆くのは「過ち」です。
「改革」による努力の結果における「違い」を
近年「格差社会」などと悲観している人たちがいますが、
言っているのは「マスメディア」たちで、本人たちではありません。
意見は言わなければならない、と思います。
誰もがメッセージを発信する努力をするべきです。
わかりやすく行動を起こし、
誰でも日々が充実できる活動が大事だと思うのです
それが、仕事や生活のすべてに反映されていると感じます