かつて、ある人に


「何を考えているかわからない人」だ、言われたことがありました。



今から思うと、かって数年前に「ある改革」のために、


自分はいつも考えに考えて、


常に物事が良い方向へ向かう知恵をしぼっていました。



意見が異なる人や、受けとめたくない人にとっては、


「理解したくない」ように思っていたのを、


「何を考えているかわからない」と表現するみたいです。



自分は元々話好きで、師匠もおしゃべりな方々でした。


http://www.geocities.jp/yokohamabujutuin/master-2.html


その影響もあって常に意見を交わしあい、


違っていてもそれをも意見交換の大切さ、として考えていました。



人によっては、自分を保護するあまりに、


誰もが同じ意見を持っているものだと考える人もいます。


自分が満たされていないと、世のすべてが満たされていない、と思い、


常に競争社会にいて、足を引っ張ってでも、地位や権力ばかりを求める人は、


誰もが、そのポジションを狙っていると思い、


人への猜疑心から離れられません。



意見は、はっきりと誰もが、わかる形にしていなければ、


「ない」のと一緒です。


意見を言わない、感想も述べない、行動しない、


そして、自分の事をわかっている人がいない。


と嘆くのは「過ち」です。


「改革」による努力の結果における「違い」を


近年「格差社会」などと悲観している人たちがいますが、


言っているのは「マスメディア」たちで、本人たちではありません。



意見は言わなければならない、と思います。


誰もがメッセージを発信する努力をするべきです。


わかりやすく行動を起こし、


誰でも日々が充実できる活動が大事だと思うのです


それが、仕事や生活のすべてに反映されていると感じます