日本経済新聞に「ニッポンの教育」というコラムがあります。
ここでは、経済を動かす知識人たちの、
目からみる日本社会を見ていて、
いろいろと気付かせてくれることが書かれています。
中でも、現在の「問題」だとして書かれているのですが、
第2部「学び」とは何か。
「かすむ志 乏しい意欲」「忘れられた知の基盤」
「受験勝ち組の気質」について、とある。
ここでも、もう解かりそうな感じですが、こう続きます。
1、試験に必要なことだけを、
予備校で要領よく学ぶ「効率型学習の弊害」
2、公的な職業に就く、という意識の乏しさ。
3、人生をどう生きるか、といったビジョンを語れない。
以上この3つがある。
・・・と記事は謂っています。
これは「現代の学生達」に対しての印象について書かれたものですが、
私達の代でも同様だったので、
現在のことだけではない、と感じます。
逆説的に、こう記してみたいと思います。
1、物事を「本質」で考えるのではなく
「理屈」で適当にまとめようとする行動パターン。
2、自分の責任ではなく、
周りもそうだから、という立場を崩さない。
3、寄らば大樹の影、
うまくいっている連中と一緒にいればなんとかなるだろう。
こういった考え方は、自分の年代の前には、
既に構築されていて、それが普通になっていました。
中にはいい年したおじさんなんかでも,
平気でこれに居直ったりしたものです。
むしろ団塊の世代が残した「処世術」の
現代においての望まれない発展形のように見えます。
「YES」も「NO」も自分で選べない、周りを見てからいつも決める。
これらを、現代の若者の責任のように押し付ける姿勢にも、
まだ誤った世間の「無責任」さが見えてくる、ように感じます。
それを、ここまでに注意せずに育てたのは「誰か」と聞いてみたい。
何時の世もそうですが、
「問題」と呼ばれるものは急に起きるものではなく、
小さな芽がだんだん大きくなって目立つようになってから、
なんらかのきっかけで、それが派手に露出していくものです。
この世には、「因果応報」つまり原因と結果の法則があります。
以前では、異なる意見を言ったり、主流以外の考え方に対して、
反するものには、 「出る杭は打たれる」「異端児」「変人」として、
むしろ敬遠する風潮を作ってきた連中の在り方にも意識を向けるべきだと思います。
「近頃の若いもんは・・」とか、「新人類」とか揶揄されても、
己の目指す、真の「学び」を気にせずに頑張ってきた「世代」から
見てみると疑問に思えることもよくあります。
時代の中で、育てるべくして育ててきて、
ある時期が来て気に食わなくなったら、
そんな風に育てた覚えはない、
というのはどういうものか。
日本社会では、今年から2007年問題、
といって団塊の世代の定年退職における引退が大きく始まります。
「問題だ」「問題だ」といっている人たちが「問題」だったりします。
以前の「サラリーマン川柳」に、こんなものがありました。
「コスト高」叫ぶ アンタが「コスト高」
これが、これからも続く日本社会の現実だったりします。