昔話稲妻表紙  巻之四 (第十四  2/2) | 五郎のブログ

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第十四 仇家の恩人。 (2/2)

 

 修行者はこれを見て思ったのは「法名のなかに刃剣の二文字があるのを見れば、これも刃にかかって亡くなった女性であろう。自分が六年以前に藤波を殺したのも、同年同月同日である。広い世界と言いながらよく似たことがあるものだなあ。どういうわけで長禄二年今月今日は、女性が刃にかかる日なのだ。この女性もどのような因果で、剣難に死んだのか」と、藤波の事と思い合わせて涙を落としながら、しばらく回向(えこう)していると、又平の妹阿龍が朽木塗盆(くつきぬりぼん・滋賀県⦅近江⦆の産出する塗物)に日野椀(滋賀県で生産された漆器)をのせて持ってきて「粗末な仏事の食事を召しあがって下さい」と言いながら、修行者の顔をよくよく見て「あなたは佐々良三八郎ではないか」と言って、思わず手に持っていた物を床にぱしっと取り落した。

 修行者は不審がり「そういうあなたは誰ですか、見忘れました」と言えば、阿龍は泣き声で「見忘れたとはよくも言い張るものだ。私はあなたに殺された、藤波の妹阿龍という者です。その時十三歳京都佐々木の旅館で、寝室に通う廊下で、手燭の光に顔を見合わせ、確かに見届けた三八郎、刀のみね打ちで手燭をぱしっと打ち落として、逃げ去ったのは覚えがあるだろう。ちょうど風雨が激しくて、庭木の花が風前の灯火と消えた姉の敵、覚悟せよ」と叫ぶと、先ほどより屏風の陰で様子をうかがっていた浮世又平は刀を抜いて飛び出して、ものも言わず斬りつけると、修行者は手早くその辺にある机をとってちょうと受ければ、皿に溶いた青黄赤白の絵の具が、周囲にさっと飛び散って、秋の花野のようであった。
 また斬りつけてくるのを受け止めて「いかにも、自分の本当の名は佐々良三八郎、今の名は六字南無左衛門と申す。藤波という女性を殺したことは覚えている。そうではあるが委細の理由を話すあいだ、しばらく待って下さい」と言っても又平は耳にも聞き入れず、頭を振りながら勢い込んで斬りつけた。南無右衛門は錫杖を取って、受け流しながら立ち回って「仔細を話さなければ、抑えてもらえないのは道理である。しばらく、しばらく」と止めた。 
 又平は吃音である上に、焦っていて、ものを言うことができず、ただ口を指さして気をイラつけてるのを、そばから阿龍は見かねて、丹(赤い顔料)を溶いた皿と筆を取って渡すと、又平はこれを受け取って、机の上で書き物をすると、南無右衛門はこれを読むと、「お前は六年以前、長谷部雲六とかいう者と言い合わせて、佐々木の家宝百蟹の絵巻物を奪い取り、それだけでなく、藤波を殺して逃げた大罪人、どうして逃れる道があるのか。自分はつまりこれは藤波の兄、湯浅又平と言うものである。お前を討って妹の冥途の積年の恨みをはらしてやろうと、日ごろ心がけたけれども、全く行方がわからず、むなしく月日を送っていたが、今月今日妹の祥月(しようつき・命日)に巡り合ったのは、因果の回る車の輪、妹が導くところである。猶予してくれとは卑怯である。当然の悪の報い妹の仇、逃れられない所だ、早く勝負を決着しろ」と書面を書き終わった。ふたたび刀を取り直して、ただ一打と斬りつけると、南無右衛門は「そのように思うのはもっともだが、自分が言う仔細を一通り聞いてくれ」と、なを受けたり流したりしてあしらった。
 ちょうどこの時、又平の妻小枝は、餅を買ってかえり、何事だろうとしばらく玄関の外に立って、中の様子をうかがっていたが「又平殿はやまらないでください」と、あわてて声をかけて走って入って、夫の腕にすがりついて押しとどめて「以前にあなたに話した、いつかは巡り合って大恩に報いようと、いつも心に忘れなかった恩人は、つまりこの御方でございます」と言うので、又平は大いに驚いて、「それは確にそうなのか」と、手を止めて座っていた。

 南無右衛門は不審に思い、小枝の顔をじっと見ると、確かに見覚えのある女である。

 小枝は南無右衛門の前に恭しく手をついて「なんとまあ思いがけず、ふたたびお目にかかる嬉しさ。私の事は六年以前、思えばしかも今月今夜、京北山の杉坂にて、首をくくって死のうとするのを、金二十両いただき、危なかった一命を救って下さったその女で、つまりこの又平の妻の小枝と申す者です。その時の大恩、骨に刻み心に銘じて、片時も忘れず、ひたすら命の親と思って、なにとぞ再びお目にかかって、少しばかりでも大きく深い恩恵に報いようと思っていたのですが、その時はただあなたの顔を見おぼえただけで、姓名を明かしてくれませんでしたので、どの様なお方とも知らず、捜す手がかりもないので、むなしくこれまで過ごしてきました」と言うと、南無右衛門は「それではあの時の婦人でしたか。思いがけない再会に、無事な様子を見て、喜びにたえません」と言う。
 又平はこの時ようやく心が落ち着いたので、ものを言う事も普通になり、南無右衛門に向かって、言葉をあらためて言った「自分は以前より妻が金銭をいただいて、危なかった命を救ってくださった恩人を尊敬していましたが、あなたであるとは夢にも思いませんでした。自分はそのころ都の北山に住んでいて、特別に困窮していて、亡くなった母を養うためにしかたなく、先祖より伝わる巨勢の金岡(こせのかなおか・平安初期の宮廷画家、巨勢派の始祖)が画いた、陸奥武隈(みちのくたけくま)の松*1の絵を質入れしたのを、妹の藤波がその事を聞いて気の毒に思い、受け戻すようにと、金二十両を援助してくれたので、その夜妻に命じて絵を受け戻しに行かせたが途中で、盗人に金を奪い取られ、妹の手前面目なくて、杉坂で首を吊ろうとしたのを、あなたが言葉をつくして道理をのべて、二十両の金をめぐんでくれて、一命を救って下さって、さらに恩を着せまいと、姓名を告げませんで、こちらの名も聞かれなかった事、その夜妻はすぐにあの絵を受け戻し、家に帰って、詳しく話しますので、世の中にはそのように慈悲深い人も有るものかと感嘆して、今にいたるまで、夫婦で時々その事を語って、感心に思う事が絶えません。あなたはそれほど慈悲深い人でありながら、どうして妹の藤波を殺し、百蟹の巻き物を奪いといるような、非道を行ったのですか。ここで思うのは、あなたの心の底が善か悪かはっきりしない。妹の仇を報いようとすれば、恩知らずの者になり、恩を思って討たなければ、妹の冥途の恨みが晴れない。あの恩とこの仇とどちらが重くどちらが軽いか、よくよく考えて、恩でもって仇にかえるか、仇でもって恩に報うか、心を決めてください」と、吃音で言って、刀を鞘に納めると、南無右衛門は言った「そう思うのは道理です。自分が藤波殿を殺したのは、全く正義に反して人の道からはずれた事ではないです。くわしい話を聞いてください。若殿桂之助殿が在京の時、藤波殿の美貌に迷い、不破伴左衛門のような佞臣(ねいしん・心のよこしまな臣下)達に進められて、放佚無慙(ほういつむざん・自分勝手で恥知らずであること)の行いが次第に積み重なって、名古屋山三郎と自分は、しばしば忠告をしたのですが、少しも聞き入れはしませんでした、もし室町御所に聞こえれば、御家の事にかかわる事なので、やむを得ず、越の范蠡が西施を呉湖に放ちたる例(巻之一 第二 参照)に習って、罪のない人を殺すのはかわいそうだと思ったが、御家にはかえられないと思いなおして、藤波殿を殺して、すぐに腹を切ろうと刀に手をかけたけれども、執権の不破道犬の心の底が、不審なところがあるので、しばらく命を保ち、彼の悪事を明らかにさせたうえで、藤波殿の縁のある人を捜して、恨みの刃によって死のうと、妻子を連れて、その夜館から逃げたが、杉坂で、ふとこの御婦人が首吊りしようとするのを見つけて、どこの人かは知らなかったが、せめてこの御婦人を救って、藤波殿の冥福の頼りにしようとして、ただひたすら死ぬのを止めた。藤波殿の兄上であるあなたの御夫人であるとは、どうして思いますか、本当に不思議な出会いです」と、その後丹波の国に移り住み、六字南無右衛門と改名したわけは、百蟹の巻き物を奪ったのは長谷部雲六一人の犯行の事、藤波の怨霊が姉弟の子供に憑き、姉の楓が蛇に魅入られ、弟の栗太郎は盲目となり、文弥と改名した事、文弥が忠義と孝行を完全に成し遂げて、若君の身代わりになった事、楓が孝行心が深く、父の汚名をすすぐために、見せ物芝居に身を売って、金を調達して、あの巻物を買い取った事、月若に磯菜を付けて、河内の国の某寺に隠しておき、自分は回国修行者に扮装して、あの巻物を持って、桂之助、銀杏の前、の二人の行方を捜しに出て、今日不思議にここに泊まり、先ほど位牌を見て、似た事と思ったまでを詳しく話すと、又平夫婦も阿龍も、初めて真実を知り、たぐいまれな忠臣だと、ますます感嘆を抑えられなかった。
 南無右衛門はさらに続けて言った「あなた達に出会って、恨みの刃にいかかって死んで、冥途に行って藤波殿に釈明することは、以前より望んでいますが、主君御夫婦御親子のこの先を見届け、再び世に出しますまでは、死に難い命なので、すこしの間自分の命を自分に預けておいて下さい。その問題を解決したら、首を差し出してあなたに討たれます。ことわざにも大丈夫の一言は駟馬(しめ)も走らず(男子がいったん口にした以上、そのことばをひるがえすことはできないということ)言います、もしこの言葉にすこしの嘘がありましたら、たちまち天地神明の御罰を受けます。恩は恩、仇は仇です。少しの恩でもって覚悟した命を助かる気持ちはないです」と、言葉に曇りなく言うと、又平の返答する言葉はなく、つっと立ち上がって刀をすらりと抜き放ち、南無右衛門の持っている編み笠を、ズバッと斬って、仏壇に手向け「どうだ藤波おまえの敵の佐々良三八郎の首をこのようにしたのであれば、速やかに恨みを晴らして成仏しなさい。南無阿弥陀仏あみだ仏」と唱え、さて南無右衛門に向かい、「晋の豫譲(よじょう*2)の例にならって、今すでに妹の仇を報いたので、もはや恨みは少しもない。このうえは妻の小枝の命を救っていただいた、大恩に報いるのみです。その恩に報いる仕方はこうです」と、隔てていた襖を押して開くと、一部屋の中から声がして「自分は先ほどからここにいて、委細の訳を聞いたぞ」と言いながら立ち出た人物は、つまりこれは他の誰でもない、佐々木桂之助国知であった。
 南無右衛門は縁側の端までさがって平伏すと、桂之助は言った「私はよこしまな者のために進められて行いを乱し、お前たちの諌(いさ)めるのを聞かず、今思えば藤波の非業の死は、結局自分の手で殺したも同然だ。自分に眼がありながら、本当の忠臣を見ることが出来なかった。百蟹の巻き物を奪ったのも、お前の仕業と思っていたのは、大きな間違いだった。今お前の話を聞けば、楓の孝行で百蟹の巻き物を買い戻し、文弥の忠義で月若も無事だとか、たぐいまれな者達が、不便な身となってしまったと思うと、強い悲しみが迫ってくる。私の行いが悪くて、父の怒りを受けて、この様にさまよう身となって、今後悔しても、いまさらどうしようもない。生きながらえて恥を残すより、自殺しようと思ったことは、何度もあるが、道犬の謀計や館の騒動をうっすらと聞くと、父上の御身の上が気遣われ、時期を待って、御怒りの許しを受けて立ち戻り、家を治めようと思うから、あちらこちらに隠れて、空しく月日を送ったが、この家の主人又平は、藤波のために落ちぶれたのを憐れんで、深くいたわってかくまって置いてくれた。名古屋山三郎は不破伴左衛門のために父が討たれた事も、彼の配下の猿二郎と言う者に出会って、詳しく聞いた」と言うと、南無右衛門は頭を下げて「御気遣いなされるな。自分の命がある限り道犬の悪意を究明して、再び世に出してさしあげます」と申すと桂之助は、これからも頼もしいと思った。
 ちょうどこの時、空中より一羽の雁が片田に落ちる雁(堅田の落雁・湖上に雁の群れが舞い降りる情景を示す)ではなくて、縁先にぱっと降りて、南無右衛門の膝に上がり、再び飛ぼうと羽ばたいたが、飛ぶことができなかった。よくよく見ると、足に財布が結び付けていたので、足枷となって飛べないのであった。
 南無右衛門は奇妙に思いながら財布を取って見ると、中にはおよそ百両ほどの小判があった。

 さてはこの金の重さに耐えられずに落ちたか、朱賓(しゅひん)の雁は胸に金銭を貫き、蘇武(そぶ・前漢の名臣)の雁は脚に帛書(はくしょ・絹布に書いた手紙)を繋ぎたる例はあるが、このような大金を雁の足に結び付けたのは、なんの為かと、一同不審に思った。
 この金の出所を知りたければ、まづ次の回を読んで知るべし。

☆(訳者の注)
*1 画の題材となった「武隈の松」は宮城県岩沼市二木2-2-7に現存している。

  【「宮城まるごと探訪」より】


*2 中国春秋戦国時代の人物、戦いに負けて死んだ主君の仇を単身討とうと試みたものの、遂に果たせなかったが、敵の衣服を斬って無念を晴らした。


【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】 

六字南無右衛門、修行者に身を扮して、大津又平が家に宿す。

 

【国立国会図書館デジタルコレクション  明19・2 刊行版より】


巻之四終