昔話稲妻表紙   巻之一 (第一) | 五郎のブログ

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桃源郷は山の彼方にあります


                  江戸 山東京伝 編

第一 遺恨の草履。

 今では昔の事であるが、天皇百三代、後花園院の御代、長禄年中(1457年から1460年)、足利義正公の時代、雲州(出雲国)尼子の一族に大和の国を領地にしていた、佐々木判官貞国(ささきはんがんさだくに)という人がいた。兄弟二人の男子をもっていた。兄は桂之助国知(かつらのすけくにとも)といって今年二十五歳である。弟は花形丸といって十二歳である。兄は先妻の子、弟は後妻の蜘手(くもで)の方に産まれた子である。
 桂之助の叔父に、蔵人貞親(くらんどさだちか)という人がいて、これはつまり判官貞国の弟であるので一万町(ほぼ1万㌶)の土地を分け与え、同国平群(へぐり・奈良県西北部に位置する生駒郡の町)に別館を造って住んでいたが、一人の娘を産んで、先に夫婦二人が死んでしまった。
 その娘は容貌が美しく、成長してから、桂之助の妻となり、名を銀杏前(いちょうのまえ)という。夫婦中睦(なかむつ)ましくほどなく男子が誕生して、その名を月若(つきわか)といって、今年七歳になった。
 そのころ、義正公(足利義政)は京都室町に新館を造って花の御所と呼んで、以前より花車風流(きしゃふうりゅう・上品で優雅)を好み、側に仕える武士も多くの大名の子息のなかより美男を選んで召し使っていたが、桂之助は以前より美男と聞こえていたので、これに選ばれて京都に呼ばれて、右近の馬場の旅館に住み、室町の御所に通って勤務していた。
 この時、桂之助に従って上京した家臣は、執権不破道犬(ふわどうけん)の一人息子、不破半左衛門重勝(はんざえもん)、長谷部雲六(はせべのうんろく)、笹野蟹藏(ささのがいぞう)、藻屑三平(もくずのさんぺい)、土子泥助(つちこでいすけ)、犬上雁八(いぬがみがんはち)等である。
 ところで桂之助は、妻子は国に残しておき、単身で長期間在京して、御所勤務の気持ちの憂鬱さが積もったのか、この頃は病がちになって、しばしば悩むので、あるとき家臣達が、桂之助の前に集まって、「何とかして殿の塞込んだ気持ちを慰める事はないか」と評議した。
 さて、当家重宝に、巨勢の金岡(こせのかなおか・平安時代前期の貴族で宮廷画家)が画いた、百蟹(ひゃくがい)の図という、百種の蟹を描いた絵巻物がある。
 室町殿(足利義政)は以前より古書画がを好んでいたので、これを聞いて、御覧になるべき事を命じられたので、国元より、名古屋三郎佐衛門の一人息子の名古屋山三郎元春(なごやさんさぶろうもとはる)が、その巻物を抱えて上京して、すでに当館に逗留していたが、以前より大殿(貞国)は申楽(さるがく・平安時代の芸能)を好まれたので、山三郎は武芸の合間に乱舞を学んで、扇を取って名誉(舞いが評判)の者であるので、皆が口をそろえて言ったのは「山三郎の上京は幸いです、彼に一度舞をさせて御覧なさい。しかし彼の舞はお国元で度々ご覧になっている事なので、相手無くしては面白味がない。この頃もてはやされている白拍子に藤波と申す女があり、歳は十七歳で歌舞吹弾(かぶすいだん・唄、踊り、楽器の演奏)の技に優れて、しかも類まれな美女で、祇王祇女仏にもほとんど劣らない者であります。彼女を呼んで、山三郎の相手として乱舞俳優(わざおぎ・演技)を催せば、すばらしい見ものでしょう」と半左衛門をはじめ、これをすすめると、桂之助は大変喜んで「それは極めて面白そうだ、すぐにも催しなさい」と命じると皆々「 謹んで承りました」と言って退出した。
 
 つぎの日、あの藤波、そして囃(はやし・後ろの楽団)達を招き寄せ、山三郎を加えて乱舞俳優(わざおぎ・滑稽な演技などすること)をさせ、華々しく酒宴を設けてたいへんな楽しみを催した。

 こうして山三郎と藤波はかわるがわる、さまざまの舞があった後、酒𩚈(さけとうべ・酔っ払いの意味と思う{訳者})の乱れ足、西寺の鼠舞、無力蟇(ちからなきかえる)、無骨蚯蚓(ほねなきみみず)の道行きぶり、福広聖の袈裟求め(ふくこうひじりのけさもとめ)、妙高尼の繦緥乞い(みょうこうあまのむつきこい)などという(これらは猿楽の演目と思われる{訳者})、両人立ち合いの演技があって笑いが起こり、最後になって藤波が男舞いという秘伝の舞を舞った。

 これは昔、後鳥羽院の時代に、道憲入道(みちのりにゅうどう)が讃岐の磯の前司(ぜんじ)という女に、伝えた舞である。

  金の立烏帽子(たてえぼし)に白い水干(すいかん・平安時代の男子の衣装であるが白拍子も用いた)に紅の大口(くれないのおおぐち・赤い大口袴)を穿き太刀を帯びて、立って舞う姿は実際にこれは沈魚落雁(ちんぎょらくがん・魚や雁も恥じらって身を隠すほどの美人)、羞月閉花(しゅうかへいげつ・花も恥じらい、月も隠れる美女)の容姿である。(☆訳者の参考画像を参照)

 翻(ひるがえ)す袖は鸞鳳(らんぽう・想像上のめでたい神鳥)の舞と同じで、歌う声は頻伽(びんが・迦陵頻伽かりょうびんが仏教における想像上の生物)のさえずるようであり、皆非常に感動して、素晴らしい舞妓だと、賞賛の声がしばらくは止まなかった。
 この時より、桂之助は藤波に恋し始めて、病は何処かえ去って行き、ただ思い川の水が胸にあふれて、恋の淵となって、舞いを見るのを口実に、召し寄せたが、ついに伴左衛門のはからいとして、藤波を桂之助のめかけに雇い、館に引き取って給仕をさせると、桂之助の望みがかなって最も愛情深く召し仕い、彼女の妹に於龍(おりゅう)といって、今年十三歳になる少女が在るので、これをも館に召して寄せて、藤波の側に仕へさせた。
 藤波も、桂之助が美男であるのを愛して、誠心をつくして、鴛鴦(えんおう・おしどり)の契りが浅くなかったので、桂之助は自ら御所の勤務がおろそかになった。
 しかし佞臣(ねいしん・口先巧みに主君にへつらう、心のよこしまな臣下)達はこれを良いことにして、昼夜そばを離れないで、遊び相手となって、酒宴淫楽にのみ過ごして、美酒や珍味が席上に溢れ、郢曲(えいきょく・平安から鎌倉初期の歌謡)謳歌(おうか・声を合わせて歌うこと)が部屋中にうるさくて、たのしみ方も、妓家(ぎか・遊女屋)娼門(しょうもん・娼婦を置いて客をとる家)の良くない行いに似て、情けないありさまであった。

  山三郎は逗留している間に、このどうしようもない状態を見聞きして、ただ一人胸を痛めて安らかな心ではいられなかった。
 しかしながら、伴左衛門もいつのころから、藤波に恋慕して、多くの恋文を送ったが、藤波は手も触れずに、全てこれを戻して、一言の返答もしなかった。伴左衛門はひたすら思い続けて、機会を窺い隙をみて、脅したりすかしたりしてかき口説いた。

 藤波は、始めは彼が恨んで怒る事を恐れて、自分の心の中に抑えていおいたが、今はやむを得ず、桂之助に恋文を見せて、彼のふるまいを詳細に告げた。
 桂之助は、生まれながら短気であったうえに、心狂わしく(藤波に夢中に)なった時なので、これを聞くとすぐに憤然として怒りが天まで登って、急いで伴左衛門を呼び出してあの恋文を広げて言ったのは「お前は藤波に不義を言い、数通の恋文を送ったゆえに、罪科は非常に重い、後日の見せしめに、我が自ら手を下してやる」と言うやいなや白鞘巻(刀)を抜き放すと、隣の部屋にいた山三郎があわてて走り出て、袖に縋りついて押し留め、言葉をつくしてなだめると、ようやく刀を納めて、「そうであるからには、お前にめんじて一命を助けて、長く罰してやる」 側の者に命じて大小(刀)をもぎ取らせて、庭の上に引き下ろさせれば、伴左衛門は一言の言い訳もなく、ただ打ちしおれて伏していた。
 桂之介は、、山三郎を振り返って「お前の上草履(屋内で履く草履)でもって、伴左衛門の顔を打って、辱めを与えるのだ」と命じた。
 山三郎は、頭を下げて「御憤りはもっともですが、さすがに彼は、執権職を仕える道犬の子息でありますので、このまま御暇(いとま、解任)にしてくだされ」と願うが、聞き入れず、「いやいや彼のような人畜(人情味のない人をののしっていう語)は、顔に糞尿を注いでも飽き足りない、さっさと打てよ。それとも我が命令に背くのか」と息巻きながら言った。
 山三郎は恐れ入り、「仰せに背きませんが、傍輩(ほうばい・同僚)のよしみ武士の情けですので、辱めのるは耐えられません、押してお願いいたします」と言いも終わらないのに「いやいや何で罪を許すことがあるか。お前がもし打たないなら共に罰する、打つか打たぬか返答しろ」と急き立てて言葉で詰めれば、山三郎はそうであるからには、やむを得ない。どのようにして命令にそむいて仕えるかと袴のすそを引き上げて、上草履を取って庭に下り立ち、庭下駄を鳴らして、飛び石をつたって、伴左衛門の側に近づき「厳命なのでしかたがない。必ず恨みなさるな」耳のちかくで言って聞かせ、草履を上げて、顔めがけて一打ちして、引き下がろうとすると、桂之助は縁先に出てちらっと見て、「なんと手弱いぞ、山三郎、数限りなく打て辱めるのだ」と言われて、やむを得ず立ち戻って、再びパシパシ連打して打ち続けると、伴左衛門の髻(もとどり・髪の毛を頭の頂に集めてたばねたところ)がプツッと切れて、頭髪が乱れて見るにしのびないありさまになった。
  桂之助は、呵々(カラカラ・ケラケラ)と笑い、「皆々彼を見ろ、心地よい見ものではないか、もう引き出して裏門より追い払え」と命じた。
 やがて下僕たちが割り竹を持って庭つたいに出てきて、さあさあと追い立てると、伴左衛門はしぶしぶ立ち上がって、静かに衣服の塵を打ち払って、山三郎をちらりと睨んで出て行った。これこそが遺恨の始まりであるのは後になって思い知らされる。
 こうして後、山三郎は、しばしば諫言(かんげん・目上の人に忠告すること)をしたものの、桂之助は少しも聞き入れない。
 佞臣達は、山三郎を遠ざけようと計略して、ひたすら悪く言い立てる事により、桂之介は山三郎を呼び出して、「(足利将軍が)百蟹の巻物をご覧済みになられたら、別の人物に持たせて戻す。お前の役目は済んでしまったので、無駄に在京していては親がなんと思うか、早く帰国しなさい」と言われ、山三郎は不本意といえども主君の命令も出し難く、すぐに旅の姿になって国もとに向かって行った。
 これより後は、誰はばかかる者もなく、室町の御所には重病と報告して勤めに出るのを止め、日夜の酒宴や楽器の演奏、春の日が暮れてしまうだろう事に花を惜しみ、
秋の夜は短いと月を恨んで、さらに正気ではなかった。

【立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】 
佐々木桂之助、怒りて家士名古屋山三郎に命じ上草履をもって、不破左衛門が面を打たしむ。

 

【国立国会図書館デジタルコレクション  明19・2 刊行版より】


☆(訳者の参考画像)

葛飾北斎の画であるが、こんな感じではないかと思う。