桜姫全伝曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼのさうし) 巻之一 (第二) | 五郎のブログ

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桃源郷は山の彼方にあります

第二 鷲尾義治玉琴に惑溺す。
  ここにまた、鷲尾義治の妻を野分(のわき)といって、今年二十歳になったが、本当に絶世の美人で、翠黛紅顔(すいたいこうがん・美しい眉と血色の良い肌)の化粧は花より美しく良い香りがして、玉簪(かんざし)に月明かりの姿も輝くばかりであった。
 容貌が美しいだけでなく、聡明で賢こく、人よりも優れていた。女性が身に付けるべきいろいろな業を習得し、武士の家に育った身として、女の子とはいえ少しは武芸も心掛けるべき事であるとして、歌を学び、楽器で遊ぶ間には、太刀を合わせる業も学んで、普通の男よりはるかに優れた手並みであった。
  この婦人の生まれを明らかにすると、桜町中納言成範卿(さくらまちちゅうなごんなりのりきょう・藤原成範)の私生児である。成範卿が下野の国室の八島(栃木市惣社町辺り)に流された時、身分の低い女性と関係を持って、その女性が妊娠して、成範卿が帰京した後に出産した女の子である。
 十歳の頃まで農家の貧しい生活の中で育てられ、苦労して暮らしていたが、鷲尾経春が偶然女の子を見かけて、「貴族の子だ」と言って、美しく麗しい生まれなので願って養女にし、成人してから息子の義治と結婚させた。
 そんな事で産んだ母親の身分は低いが、有名な小督局(こごうのつぼね・成範の娘)の妹姫であれば、容姿が美しいのも当然である。日頃夫婦は仲睦まじく、比翼連理(ひよくれんり・相思相愛の仲)の会話は、偕老同穴(かいろうどうけつ・夫婦の信頼関係が非常にかたいこと)の約束が深く、花を愛し月を観るにしても、楽しみを夫婦共にしないことはなかった。
 そうであっても、前世に決められたことなのか、いまだに子供が出来ず、これだけが悩みであり、神に祈り佛に願ったが、全くその兆候はなかった。
 義治はこれまで、一人の妾を持たずに過ごしていたが、こうなっては、いつかは子供を儲けるべきで、後継ぎがいないのは不幸の第一として、この上は、妾を抱えるしかないとして、この頃、京都より一人の美女を招いて、腹心の家臣篠村八郎という者に預け、彼の家の奥に新しい部屋を造り召使を少人数添えて、質素にして居させた。
 しかし、義治は遠慮深い性格なので、野分の方の気持ちを考えて、当分この事は知らせないようにしようと、八郎に口止めして、深く隠したので、家臣や使用人なども知ることはなかった。
 そもそも妾にしたのは、広い都の中でも、並ぶ者のいない白拍子(しらびょうし・歌や踊りの芸人)で姿といい業といい、あの祇王、祇女(ぎおう、ぎじょ・白拍子の姉妹平家物語に登場する)、佛などにもまったく劣らず、名を祇福(ぎふく)といった。
 「もし、大政入道(だいじょうにゅうどう・平清盛)がいた時代だったら、きっと寵愛されていただろう」などと言って、六波羅様(ろくはらよう・平家一門が権力を得ていた時代、その武士や婦女が行なっていたしゃれた風俗)を好む若者等が恋し慕ったが、この度、義治に購われてこの国に下って来たのである。
 年は十六歳になっていた。歌や踊や笛や琴などの技量にも優れていたが、とくに琴の演奏が素晴らしく、鳥が踊り魚が飛び跳ねるほどの技量であった。あの藤原俊蔭(ふじわら の としかげ)の娘(うつほ物語を参照)にも多くは負けていないと言って、祇福という名を改めて玉琴と呼ばせた。
 義治は、始めの頃は、ただ世継ぎの子供を産ませる為ばかりで、少しも愛欲を感じることはなっかったのだが、次第に馴れ親しむに従い、都で多くの人に馴染み、世の中を知って、風流をよく理解している玉琴のあまりにもしみじみとした性格に包まれて、愛し慕う気持ちが日々深くなり、ひたすら玉琴の部屋にのみ通い、昼夜の酒宴、楽器の演奏に、秋の夜は短いと月を恨み、春の日も暮れることを残念がる(一日を短く感じている)ついに玉琴は妊娠して、義治は喜びを我慢することが出来なかったが、いまだに誰にも知らせず、よい機会を探っていた。
  こんな状況であれば、野分の方の寝室は当然何とも寂しく、久米の岩橋(役の行者が架けるのに失敗した橋・男女の契りが成就しないことのたとえ)の様に仲が絶えて、夜の交わりもなくなり、いなの笹原にそよとも訪れることもなく(ありま山~の百人一首参照)緑の布の覆いは空しく垂れて、赤く塗って飾った寝室はなにもすることがないまま閉じていて、枕の塵を払う気もなく、普段もわびしい思いで退屈な日々を過ごすだけである。
 下に仕える者が無責任に噂を話すのは、今も昔も変わる事なく、ある時、侍女たちが皆で、野分の方に言ったのは「あなた様はいまだに知らないのですか、殿は先ごろ、都より玉琴という一人の美女を召し抱えて、篠村八郎の家に住まわせて、毎日そこに居て、酒宴や音楽に明け暮らしています。下屋敷にこもって兵書を講義させて聞いていると仰せられるのは偽りで下屋敷を密かに出て、そこに通っておられます。しかも御寵愛のあまり、殿の子を孕んで、よほど月がたって、しかも左孕み(男子が生まれる兆候)と聞きました。もし御男子なぞ誕生しましたら、あの女は必ず気に入られて、権力を持って傍若無人に振る舞い、あなた様の権力は夕日が傾く様になって行って、生きてる甲斐のない御身になってしまうでしょう。このように仕えてきて御恩を受けてきた我々であれば、これを聞いて、昼も夜も胸の炎が消える暇がなく、ただ口惜しさ悲しさに堪えています。それは忍んでも仕えるでしょう。殿はますますあの女に溺れなされば、お家の為に悪い事になりそうです。良い折を見て殿様に御忠告なさいませ」などと代わるがわる言った。
 野分の方は、これを聞いて表情を変えて、「私に仕える者達とは思われない、そなた達は心が歪んだ者達です。玉琴とやらのことはずっと以前より知っていても殿を恨む理由はありません。私は長年連れ添ってきたといえども、運のめぐり合わせが悪く未だに一人の子供も儲けられず、かねて妾を召し仕えるように事をすすめ申して、世継ぎがあってほしい思っていた折であれば、良い幸せです。一般民衆や百姓ですら妾を召し仕う習慣はあります。まして殿はこの国の長者と尊敬されてる御身であれば、寵愛する女が多数有っても、何の差し障りがあるのか、結局遠慮深い御性質なので、私の気持ちを思って差し障りを感じたのでしょう。あの女がもし世継ぎを産めば、一家の喜びはこの上もないことです。腹はもとより借り物なので、その子は私の実子も同然です。なんで隔てる心があるでしょう。私はただ安産を祈るだけです。また深く惑溺すれば、家の為に悪いなどは、あなた達が言うべきことではありません、よく面倒を見てきた老臣も多数いるので、たとえ殿に誤りがあっても、どうしてあなた達の助言を望むことがありますか、あなた達が言うことは私を思っているようですが、かえって邪道に誘うのです。このようなあさましい心を持って、私に仕えようと思ってはいけません。このようなことが、あの女に漏れ聞こえて私が嫉妬していると思われるのは恥ずかしい事です。今後あの女の噂をする者がいれば、すぐにも罪を正します。どうにも愚かなもの達です」とつぶやいて、奥の邸宅に入っていけば、腰元達は恥じ入って、顔を赤くして「高貴な人が思うことは格別です。下らないことを申し上げて不愉快にさせてしまいました。まことに野分の方様は賢い女性です」大変感動してそれぞれの部屋に退いて、今後、この事について話す者はなく、ただこの賢い心のみを秘かに語りあって感心した。
 
  さてそのころ、木曾義仲の残党や平家の残党が、山奧に隠れて住んでいて、人々に危害を与える事が多かったが、その仲間には、当国の幼女を奪い、美人の人妻さえも盗んで遠国に連れさって、妾や遊女として売る賊もいた。百姓達がこれの為に苦しんで、義治も危機意識を持って、賊対策の武士に命じて捕らえさせると四人の賊を捕へて来た。弓弦(ゆずる)売り、高野法師(こうやほうし)、板金剛(いたこんごう・板ぞうり)売り、算者(さんおき・易者)などを扮装した賊である。
 まず身に着けている物を調べると、皆ふところに、ちいさい蝦蟇(がま)の干した物を所持していた。よく見れば、普通の蝦蟇とは違って、二、三寸(6、9センチ)ほどの尾があった。「これは何のために持っているのだ」と糾明しても、その理由を誰も言わなかった。
 鞭打ちにして拷問すると、苦痛に堪えず算者に扮装した賊が言うのには「これは鬼界が島に棲息する尾長かえると言うもので、漢語で渓狗(けいく)とか言われていると聞きました。あの島の山中、溪谷のなかに棲息しているだけで、他の場所には絶滅していない生き物です。我々の仲間は、数多くいて諸国に隠れ住んでいます。互いに助け合い人身売買する時は、全員の顔を知っている分けではないので、この蝦蟇を証拠として、売買に役立てます。その為、我々の仲間うちの言葉で蝦蟇使いと言います」と言へば、ほかの賊も同じ様に「彼がいうことは、少しの間違いもない」と言った。まずは獄舎に入れて置くことにした。
  しかし、この四人の賊のうち、弓弦売りに扮装していたのは、並みの盗賊ではなく、蝦蟇丸(がままる)といって、能力がすぐれ武芸を習得して、なかなか簡単に捕らえられる者ではなくこの時、疫病を病んで身体が痩せ衰えて、体力が落ちて動かれなかった為に、簡単に捕らえられた。
 後白河院の御代に、西海で海賊が蜂起して、民衆を悩ませていたのを鷲尾維網(わしのおこれつな)が鎮圧して、その功績で右衛門尉(うえもんのじょう・第三等の官)に昇任した。
 これは義治の曽祖父である。かの蝦蟇丸はその海賊の張本人、木冠者利元(きのかんじゃとしもと)の子である。そうであれば鷲尾家は父の仇なれば、当主の義治を討って恨みを晴らそうと、あの婦女子を奪う賊に紛れ込んで、当家の様子を探っていたが、運が尽きて捕らえられた。
 蝦蟇丸は、獄舎にいて思ったのは「俺は病気で身体の自由が効かず、このように簡単にしかも仇の家に捕らえられる口惜しさよ、なんとも運の悪いことだが、しかし、なんとかして生き延びていつか仇を討つ」と様々考えていたが、ようやく体力が回復したのを感じて、まづ心の中で喜んで、機会を伺っていると、ある夜風雨が激しく、守衛の者もなまけて近づかないのを好機と、三人の賊を皆絞め殺して、獄舎を破って逃げうせた。翌朝これを知って大騒ぎになり、周囲に追手を走らせたが、ついに行方は分からなかった。
 結局しようがなく、三人の賊を生きているように処刑して民衆に公開した。 これで国中は賊の嘆きを忘れて、百姓達は喜びあった。
 
  こうしてこの年も暮れ、建久二年春の半ばになった。野分の方は、退屈な日々を慰める為に、庭を造りかえさせて、常にかわらず見る植え込みもひときわしみじみとした味わいがあって、一日中、折戸近くに出てながめていたが、松の梢に烏がいて、何かを地上に落としたのを見れば蛙のようなものである。鵙の早贄(もずのはやにえ)かと、箸をもって庭に降りて、つまんでよく見れば長い尾のある蝦蟇で、通常見られるものではない。
 野分の方が思うには「去年、蝦蟇使いとやらいう盗人を捉えたが、皆ふところに尾のある蝦蟇をもっていたと、腰元達が夜話していたのを聞いたが、これは必ずその物であろう。裏庭に埋めたと聞いたが、庭造りであそこの土を掘りかえして、これが出てきたのを烏がとって来たのに疑いない。はからずもこれが自分の手に入ったのは、密かに計略を行うべき時がきたのだ」と、心の中でうなずいたが、ちょうど側に誰もいないのを幸い、すばやく香箱の中に入れて、深く隠して置いた。
野分の方の胸中にいかなる計略があるのか、次の回を読んで知るべし。
(野分の方の戦慄すべき計略が明らかになるので、乞うご期待{訳者})
 
(図の文言 鷲尾十郎左衛門義治内室野分の方と酒宴を催して楽をきはむ)