第一 弥陀二郎網して仏像を得る (2/2)
この話はさておいて、義治の家来に真野水二郎(まのみづじろう)という者がいた。
彼の父は江州真野(滋賀県辺り)の生まれで兵衛貞次(ひょうえさだつぐ)といい、義治の父経春に仕え忠臣で無二の武士であった。
戦場においてしばしば軍功をあらわし、陪臣(家臣のそのまた家臣)ではあったが、義経に手柄をほめられ褒美を与えられる事が多かった。
その頃、貞次は子供がいない事を嘆き、夫婦で神仏に祈り、ついに男の子が誕生した。その児は八月十五夜に生まれ、月は水陰(みかげ・水辺や水に覆われた所、 水面に映る物の姿)の精(月の光が水面に浮かぶことからか?)であることから、水二郎と名付けたとか。
この水二郎成長するにしたがい、大胆強気で力は人を超え、性格はひねくれて乱暴で更に憐みの心を持たず、常に山や川を走り回って狩りや漁を楽しみ、全く素行が悪くて、人は皆、異名を付けて悪二郎と呼んだ。
彼の父は江州真野(滋賀県辺り)の生まれで兵衛貞次(ひょうえさだつぐ)といい、義治の父経春に仕え忠臣で無二の武士であった。
戦場においてしばしば軍功をあらわし、陪臣(家臣のそのまた家臣)ではあったが、義経に手柄をほめられ褒美を与えられる事が多かった。
その頃、貞次は子供がいない事を嘆き、夫婦で神仏に祈り、ついに男の子が誕生した。その児は八月十五夜に生まれ、月は水陰(みかげ・水辺や水に覆われた所、 水面に映る物の姿)の精(月の光が水面に浮かぶことからか?)であることから、水二郎と名付けたとか。
この水二郎成長するにしたがい、大胆強気で力は人を超え、性格はひねくれて乱暴で更に憐みの心を持たず、常に山や川を走り回って狩りや漁を楽しみ、全く素行が悪くて、人は皆、異名を付けて悪二郎と呼んだ。
父の貞次は、これを愁いて、度々説教をするが聞き入れることがないので、怒ったり悲しんだり、夫婦ただこれのみを苦に病んで毎日を暮らした。
それにもかかわらず、鷲尾経春が奥州衣川で討死にしたと聞いて、貞次が愁傷のあまり、ただちに奥州に下り、経春討死の場所まで行って、ついに殉死をしたのは誠にたぐいまれな忠臣である。
それにもかかわらず、鷲尾経春が奥州衣川で討死にしたと聞いて、貞次が愁傷のあまり、ただちに奥州に下り、経春討死の場所まで行って、ついに殉死をしたのは誠にたぐいまれな忠臣である。
これによって、義治は貞次の忠死を憐み、その子の水二郎に多額の俸禄(高給)を与え、真野水二郎春次(はるつぐ)と名乗らせ召し使うが、水二郎はとにかく殺生をのみを普段の仕事として、しかも大酒飲みで怪力を自慢して、ややもすると論争を引き起こして、人をぶちのめす類の悪さをますます募って、これを憎むものが多く、義治に告げて「処罰してください」と進めるが、義治が彼の性質に見るのは「悪い事をするというが、元来無欲で名誉や利益を貪る心はなく良く教え諭せば、後々はその行いも良くなるだろう」と気を長くして、色々と忍耐強く召し使った。これは全く、貞次の生前の忠義を思ってその子を憐れんだからである。
さて、こんな水二郎、ある時丹後の国、九世戸の文殊堂に参詣し、殺生禁断の場で自ら網を投げて魚を獲れば、漁師達がこれを見つけて制止するのに腹を立て、漁師達を全員殴り倒して、多数に怪我を負わせて立ち去った。
漁師達は、彼が丹波の国桑田の長者の家臣と聞き、やがて鷲尾の館に来て、水二郎の暴力行為の仔細を訴えたので、義治はこれを聞き、一つには朝廷の評判に対する差し障り、二つにはえこひいきの処置になる事を避けて、しょうがなく水二郎の家財を没収し、国の境から追い払った。
水二郎、突然浪人の身となり、杖を失った盲人、エビとはなれたクラゲ(意味不明)の思いをして、頼った木陰さえ雨漏り、身を隠す場所もなければ、山城の国淀(京都府京都市伏見区淀本町)辺りの一口(いもあらい)という所に、なんとか膝が入るくらいの小屋を造って住み、異名を実名として、自ら悪二郎と名乗り、生業もなく、日ごろから好んでいた漁をして、極貧の暮らしでいたが、ある時、頭陀の沙門(托鉢して歩く修行僧)がいて度々この村にやってきて、黒谷派(京都金戒光明寺の浄土宗の一派)の専修念仏(せんじゅねんぶつ・ただひたすら念仏を唱えること)を唱え、人の門々に佇んで、手の平に喜捨を願った。
水二郎の思っていることには「あの僧が来れば、魚が獲れない。網の中に魚が見えない、大いに仕事の妨げになっている。もしまた来たらぶちのめして、二度と来られないようにしてやる」と思っていると、次の日、かの僧が来て、玄関に立ったので、捕まえて錫杖と鉦(托鉢僧が持ち歩く杖とかね)を奪い取り、囲炉裏(いろり)の中に鉄の箸を差し入れて焼いて、額に焼印を押して帰したが、僧は痛んでいる様子もなく、怒っている感じもなく、ただ悠々として立ち去れば、水二郎は大いに怪しんで追跡して、その住所を探ろうとすると、不思議なことに、僧は淀川の水上を歩き、陸上を歩くように西に向かって去った。
水二郎は増々怪しんで、さらに追跡すると、西山粟生野(にしやまあおうの)の光明寺という寺に入って、直ぐに見えなくなった。
さて、こんな水二郎、ある時丹後の国、九世戸の文殊堂に参詣し、殺生禁断の場で自ら網を投げて魚を獲れば、漁師達がこれを見つけて制止するのに腹を立て、漁師達を全員殴り倒して、多数に怪我を負わせて立ち去った。
漁師達は、彼が丹波の国桑田の長者の家臣と聞き、やがて鷲尾の館に来て、水二郎の暴力行為の仔細を訴えたので、義治はこれを聞き、一つには朝廷の評判に対する差し障り、二つにはえこひいきの処置になる事を避けて、しょうがなく水二郎の家財を没収し、国の境から追い払った。
水二郎、突然浪人の身となり、杖を失った盲人、エビとはなれたクラゲ(意味不明)の思いをして、頼った木陰さえ雨漏り、身を隠す場所もなければ、山城の国淀(京都府京都市伏見区淀本町)辺りの一口(いもあらい)という所に、なんとか膝が入るくらいの小屋を造って住み、異名を実名として、自ら悪二郎と名乗り、生業もなく、日ごろから好んでいた漁をして、極貧の暮らしでいたが、ある時、頭陀の沙門(托鉢して歩く修行僧)がいて度々この村にやってきて、黒谷派(京都金戒光明寺の浄土宗の一派)の専修念仏(せんじゅねんぶつ・ただひたすら念仏を唱えること)を唱え、人の門々に佇んで、手の平に喜捨を願った。
水二郎の思っていることには「あの僧が来れば、魚が獲れない。網の中に魚が見えない、大いに仕事の妨げになっている。もしまた来たらぶちのめして、二度と来られないようにしてやる」と思っていると、次の日、かの僧が来て、玄関に立ったので、捕まえて錫杖と鉦(托鉢僧が持ち歩く杖とかね)を奪い取り、囲炉裏(いろり)の中に鉄の箸を差し入れて焼いて、額に焼印を押して帰したが、僧は痛んでいる様子もなく、怒っている感じもなく、ただ悠々として立ち去れば、水二郎は大いに怪しんで追跡して、その住所を探ろうとすると、不思議なことに、僧は淀川の水上を歩き、陸上を歩くように西に向かって去った。
水二郎は増々怪しんで、さらに追跡すると、西山粟生野(にしやまあおうの)の光明寺という寺に入って、直ぐに見えなくなった。
水二郎は、その辺にいた人に、僧について「こんな感じの頭陀の僧はこの寺いないか」と尋ねると、その人が答えて「この寺には頭陀の僧はいない。但し本尊の釈迦佛、時々頭陀の僧の姿で現れて、世の人を救うため縁を結ぶと伝説にあるが、現実に見た者はいない」と語る。
水二郎いよいよ怪しく思い、佛殿に入って本尊を拝んで見ると、額に焼けた印の痕があって、血を流し続けていた。
水二郎いよいよ怪しく思い、佛殿に入って本尊を拝んで見ると、額に焼けた印の痕があって、血を流し続けていた。
水二郎は、間近にその奇跡を見て仏法の不可思議なることを会得して、深く懺悔(ざんげ)の心を生じて、これまでの悪業を改めようと自ら心に誓い、感涙を流しながら家に帰ったが、僧から奪い取った錫杖と鉦はそのままあり、鉦の裏をみると「常照(じょうしょう)」という二字を彫付けてあった。正にこれは、佛の光明十方(こうみょうじつぽう)世界を常に照らす(浄土宗の教え)ということを示したのだろうとますます奇異の思いがした。
さて、その夜の夢に、容貌端麗な僧が出てきて告げて言ったのは「おまえの機はすでに熟した。感応(佛の心を感じること)があり、今夜網を持って、淀の神の木へ行きなさい、必ず佛の教えの知識に遇うはずだ」と告げられるのを見て、ただちに夢から覚めた。
さて、その夜の夢に、容貌端麗な僧が出てきて告げて言ったのは「おまえの機はすでに熟した。感応(佛の心を感じること)があり、今夜網を持って、淀の神の木へ行きなさい、必ず佛の教えの知識に遇うはずだ」と告げられるのを見て、ただちに夢から覚めた。
水二郎は歓喜の思いになって、小舟を漕いでその場所に着いたが、この時すでに深夜である。周りは暗々とした水面に、光り輝く光明が迸(ほとばし)って、あたかも日の出るようであれば、感動してうれしさは限りなく、その光の中に網をサッと投げ入れると、紫摩黄金(しまおうごん・紫色を帯びた最も良質とされた黄金)とおぼしき弥陀の尊像が網にかかって上り授かった。
水二郎は、これを捧げて家に帰り、香や花を供え、これより菩提心(ぼだいしん・悟りを求める心)を頼りに念仏を唱え、嫌がったり喜んだりしていた心は定まって動かない心になり、ついに殺生の仕事は止めて、ただ頭を剃らない出家のように行えば、当時の人はこれより悪二郎とは呼ばず、改めて弥陀二郎と呼んだ。
こうして、弥陀二郎が願ったのは「一つは亡き主君亡き父の冥福を祈る為、二つは世の人を救うために手をさしのべて縁を結ぶ為、三つは自分の罪障消滅(ざいしょうしょうめつ・ 往生の妨げとなる過去の罪を消し去る)の為、諸国を巡って多くの人に仏の教えを説き、信心を勧めて、一つの佛堂を建てて、あの霊佛を安置してさしあるべきだ」と熱心に思い立って、一つの笈(おい・背に負う箱)を造って、尊像を入れてさしあげ、これを背負って、あの錫杖と鉦は佛の贈り物なのでこれを携帯し、まず山陰山陽の国々を回ろうと心に決めて、出発した。
この時は、建久元年(1190年)の冬の半ばであった。誠にこれは、逆則是順(ぎゃくそくぜじゅん・この世における順逆は、結局仮の姿であって、逆も順も差別なく、実は同じであるということ)の道理に違わず、悪に強い者は善にも強いということわざも、この弥陀二郎のような者のことである。
この時は、建久元年(1190年)の冬の半ばであった。誠にこれは、逆則是順(ぎゃくそくぜじゅん・この世における順逆は、結局仮の姿であって、逆も順も差別なく、実は同じであるということ)の道理に違わず、悪に強い者は善にも強いということわざも、この弥陀二郎のような者のことである。
(図の文言 弥陀二郎真野水次郎といひ時丹後國切戸の文殊にもうでてさまざま狼藉をなし浦人を打ちそこなふ)
(図の文言 弥陀二郎頭陀の僧をとらへ鉄箸をつきて額に印す頭陀の僧は光明寺の釈迦佛の化身なり)
弥陀二郎淀川に網を下して紫摩黄金乃霊佛を感得す