先日の、古都京都への旅https://ameblo.jp/yokoauntylacarina/entry-12422903552.html にて平安時代の歴史について再度興味を持ち俄然調べ始めました。

 

   寂光院で隠棲した 建礼門院徳子さまの 一生に思いを馳せてから なぜにそんなんなったん?みたいな興味です

 

 




 

   建礼門院徳子さまの一生は、16歳のとき高倉天皇(11歳)に入内し、21歳で安徳天皇を産みます。このとき「平家以外はひとあらず」というぐらい平家の権力と栄華を誇っていました。ただ、その後高倉天皇が崩御し、清盛公が相次いで亡くなってからは木曽義仲に都を追われ、壇ノ浦の戦いでは海に入水しましたが、源氏がたの兵により熊手で刈り取られ生きながらえ、最後は寂光院で安徳天皇と平家の菩提を弔い亡くなった。平家物語の最後の 大原御幸 で 後白河法皇が寂光院へ建礼門院を訪れるシーンが有名で、能にもなっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

   まず、源平合戦 源氏と平氏の争いの原因は 後白河法皇 にあるとされます。

 

   その後白河法皇 の 家族を紐解き、 その後の貴族社会から武家社会への変遷 を考えるととても興味深いです

 

 

   後白河法皇の、おじいちゃん 白河法皇 様は 藤原道長の血を引く 摂関家 から唯一遠ざかり、自分の子供が小さいときに帝にし、 院生を 展開していました。つまり、権力と金を思う存分持っていたんですね。

  

   宮家の先祖の行いのとばっちりが平家を滅ぼし、源氏は勝ったけど結局は北条氏になりかわられ、結局 武家社会への移行 に加速していきます。

  摂関家のなりましからも100年は続かないかもしれません、そうそう 藤原道長の子 藤原彰子 さまは 帝の子供をうみ90近くまで長生きしました。彼女の周りには、紫式部をはじめ和泉式部など多彩な女性が支えていたそうです。

 

   白河法皇様 はなんでもありだったけど 熊野詣大好きな方で、養女にした待賢門院璋子 さまと仲良く、 彼女を寵愛して 自分の孫の嫁にします。孫は鳥羽天皇。

   鳥羽天皇と待賢門院璋子さまは5人の子供を産みます。

   その長男が崇徳院さまで、両親からは疎まれた存在、お母さんは待賢門院璋子だけどおじいちゃんの子供であることは周知の事実で、だけど 白河法皇様からはとても可愛がられていました。結局鳥羽上皇も院生をするために崇徳院さまを差し置いて、後白河法皇を立て、院生をする。これが遠からずとも保元の乱の原因です

 

  待賢門院璋子さまの容色が衰えて、鳥羽上皇は九尾狐の伝説になった玉藻御前 傾国の美女 の騒動なんかがありました

  ちょうど、楊貴妃の伝説からも伺えるように。

 

  その後二人の子供の最後の 後白河法皇が亡くなったときに、平安時代は幕を閉じ源頼朝が鎌倉に鎌倉幕府を開きました

  京都の古き悪しき血の因習と呪いから逃れられたかったのかと思います

  

  お寺も権力を持っていましたし。

 

  こう考えると崇徳院さま は全く悪くなく、子供は親を選べない 宿命 から逃れられない のかもしれません。それでも折り合い悪くても血で書いた写経を後白河法皇へ送ると捨てられてしまうし・・・悲しいです。

 

  そんなこんなで

  

  後白河法皇との折り合いも悪く、崇徳院様は 保元の乱を起こします

  その後白河法皇の後ろ盾となり、力を貸したのが源頼家と平清盛です。ここから絢爛な源氏と平家の物語が幕を開けるのですが

 

  この平家物語も だれかが 都合よく 解釈して書いたものだとしたら。そうかんがえるととても面白い。

 

 

 

 

 

 

 

  多分一番長生きした人で権力を持っている人が、自分たちのした所業を消すために書いたのかもしれない ですね。

 

  判官びいきという言葉もあるように、日本人は源義経のヒーロー伝説、悲劇のヒロインが大好きなので私もとても心惹かれました。

  ただ後白河法皇は男色で清盛公をはじめ、息子の重盛などたくさんの人と関係がありなおかつ好色で建礼門院さまとも関係があった、平安時代はそこらへんはフリーダムだったみたい ですけど。その建礼門院さまも平知盛などど近親相姦の関係にあったりしたらしいのでどっちもどっちかと。

  ボルジア家も血の繋がりを大切にしてルクレツィアボルジアも兄とそういった関係にあったし、昔は血の血脈を途絶えさせてはならないから 狂気の沙汰 も 現実で正しいこと とされたのも 日本史のホラーの一つです。

 

  数年前に栗山村にある平家落人の里へ行った折、平敦盛の伝説を知りそこから平安時代後期への興味はつきません。

  

 

  平家物語の 祇園精舎の鐘の声 から続く物語も 平家の栄華を歌いつつも天皇家とそれを支える摂関家の在り方を問う のかも。ただ大正時代まで摂関家と天皇家の血縁関係は続いており、いまなお それは密かに受け継がれているかもしれません。闇の中で続くものも多く古の京都へ行きそんなことを思いを馳せてみました。

 

 ちなみに寂光院に祀られている大原女のモデルとなった 阿波内侍(あわのないじ) さま は崇徳院さまの寵愛を受けた方です。

 天皇家の方々に愛された女性たち

 

 出家することによって、そういった男女関係の精算 をチャラにして祈る ことしか逃げ道がなかったのも悲劇 だと思います。

 建礼門院さまと阿波内侍(あわのないじ)さま

 相当に院に対する恨みつらみもあったけど、水に流したのかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 平家物語のはじめに、祇王と佛御前の白拍子のお話があり 彼女たちは清盛公の寵愛を争います。

 最後はみんなで仏門に入り仲良く祈ったという下りを読み、ああ、救いは出家なのね。と思いました。

 

 

 

 ただ平安時代の男の人達は現代と同じ草食系らしく、なよっちかったみたいです。それが数年後に武家、肉食系になるから日本もそのうち草食系から肉食へ転換することと思います笑。

 

 後白河法皇のライフワークは熊野詣で相当数参拝しています。

 崇徳院様に対する所業、源義経に対する(稚児としてかわいがっていた)後ろめたさ、建礼門院様に対する贖罪、など都ではいろいろと思い出す諸々のことを忘れるためにも参拝をしたのかな?と思います。

 

  平家物語は因果応報を説く物語とも言われており、人々の心の安寧を願う 施政者の姿も垣間見えたそんな気がします。

 

 

  ここでのポイント、傾国の美女3人。

  待賢門院璋子、玉藻御前、建礼門院徳子さま

 

  一人は庶民に愛され、一人は那須の殺生石にされ、一人は比叡山の北の由緒ある尼寺で菩提を弔う。

   

  運命に翻弄されつつも、鮮やかに絵巻に残る女性たちの歴史は1000年経った今も色あせないです、歴史面白いと改めて思いました。

 

   長々と長文書き散らしました、