1.魏志倭人伝とは。
中国の歴史は、夏・殷・周の古代三代王朝(BC1900年頃~BC770年)
の後、春秋戦国時代 (BC770年~BC221年)、中国を統一した秦
(BC221年~BC206年)、そして、前漢(BC206年~AD8年)、
新(8年~23年)、後漢(25年~220年)、魏・蜀・呉の三国時代(220年
~280年)、中国を再統一した晋(280年~420年)へと続く。
魏志倭人伝とは、中国の歴史書 [三国志] の中の[魏書・烏丸鮮卑
東夷伝倭人条]の事。晋の陳寿(233年~297年)が、280年~297
年頃著した[三国志]は、魏の文帝・黄初元年(220年)から晋の武帝・
太康元年(280年)までの魏・呉・蜀の歴史書。
倭人や倭の国々に関し、既存の歴史書、史記(著者:司馬遷BC145
/135年~BC87/86年)・漢書(著者:班固 32年~83年)・魏書(著者:
王沈?~266年)・呉書(著者:韋昭?~273年)等を参考にしたと思わ
れる箇所もあるが、正始元年(240年)、魏の使者として邪馬台国を
訪れた梯儁の報告書等を元に、三世紀頃の日本の状態を、
同じ時代の中国の歴史家が著した文献。
参考 : 魏(220年~265年)、都は現在の河南省洛陽市。
蜀(221年~263年)、都は現在の四川省成都市付近。
呉(222年~280年)、都は現在の江蘇省南京市付近。
2.邪馬臺國 (ヤマタイコク)か邪馬壹國 (ヤマイチコク)か?。
邪馬臺國または邪馬壹國の議論はあるが、場所推定には影響し
ないと考える。陳寿が書いた三国志の原本は残っていないが、
現在、信頼性が高いとされる刊本に、南宋時代の紹興年間(1131
~1162年)刊行の紹興本、紹煕年間(1190~1194年)刊行の
紹熙本が存在する。 紹興本と紹熙本には邪馬壹國と記載あるが、
宋時代(960年~1279年)以前に三国志を引用したと思われる、
後漢書・東夷伝(編者:范曄 398~445年)、梁書・倭伝(編者:姚思
廉 557~637年)、隋書・俀(倭)国伝(編者:魏徴 580~643年)には、
邪馬臺國と有り、紹興本・紹熙本の『壹』は、『臺』の誤植と考える。
参考①後漢書・東夷伝。
【~其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪
郡徼去其國萬二千里~其地大較在會稽東冶之東與朱
崖儋耳相近故其法俗多同~】。
訳・・その大倭王は邪馬臺国に居す(今名を案ずるに邪摩
惟音の訛なり)楽浪郡境はその国を去ること万二千里
~その地はおおむね会稽東治の東に在り。
朱崖、儋耳(朱崖・儋耳は海南島の郡名)と相近し、
故に法俗多くは同じ。
➁梁書・倭伝。
【~倭者自云太伯之後俗皆文身去帶方萬二千餘里大抵
在會稽之東相去絶遠~又南水行十日陸行一月日至
祁馬臺國即倭王所居~】。
訳・・倭は自ら太伯の後裔だという。その風俗では皆体に入
れ墨する帯方郡を去ること万二千余里おおよそ会稽郡
の東に在るが、とてつもなく遠く離れている~また南に
水行十日陸行一月で祁馬臺国に至るすなわち倭王が
居る所。
➂隋書・俀(倭)国伝。
【~魏時譯通中國三十餘國~夷人不知里數但計以日~
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古云去樂浪郡境及
帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近~】。
訳・・魏の時中国に訳通するは三十余国~夷人(倭人)は
里数を知らずただ日を以って計る~邪靡堆に都する
すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり古く
は云う、楽浪郡境及び帯方郡を去ること一万二千里
会稽の東に在りて儋耳と相近し。
下記、魏志倭人伝は、紹興本に依る。訳文は一般的な訳を使用。
訳文に追加を必要とした抜粋文 09・10には、『私論』を付加。
01 倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者
今使譯所通三十國。
訳・・倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為
す。旧(もと)百余国。漢の時代に朝見する者有り。今、使訳通
ずる所、三十国。
参考①漢書・地理志燕地条。
【~然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮
於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分為百餘國以
歳時來獻見云~】。
訳・・然して東夷の天性従順、三方の外(西戎、北狄、南蛮)
とは異なる。故に孔子(現在の山東省曲阜に誕生、
BC552年~BC479年、春秋戦国時代の思想家)道の
行われざるを悼み、海に筏を浮かばば九夷に居らんと
欲す。以(ゆえ)有るかな。樂浪海中には倭人あり分か
ちて百余国と為し歳時を持って来たりて献見すと云う。
➁楽浪郡(108年~313年)は後漢(25年~220年)に属してい
たが、遼東地方で有力となった公孫康が独立して楽浪郡を
支配下に置き、帯方郡(204年~313年)を建てた。
景初二年(238年)8月、後漢に代わった魏(220年~265年)
が公孫氏を滅ぼし、楽浪郡・帯方郡を支配した。
邪馬台国の女王卑弥呼が帯方郡に使いをよこし、
魏に朝貢したのは翌年の景初三年(239年)6月である。
02 従郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里。
訳・・郡より倭に至るには、海岸に従って水行し、韓国を経てある
いは南しあるいは東し、其(倭)の北岸狗邪韓国に到る
七千余里。
参考 : 狗邪韓国は、弁韓十二国の一つ弁辰狗邪國(現在の慶尚
南道の金海辺り)。
03 始度一海千餘里至對馬國~有千餘戸。
訳・・始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る~千戸余りある。
参考 : 魏の使節到着場所は、今日の厳原辺り。
04 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國~有三千許家。
訳・・又南一海を渡る千余里、名付けて瀚海と日う、一大国に至る
~三千戸ばかりある。
参考 : 魏の使節到着場所は、今日の郷ノ浦辺り。
05 又渡一海千餘里至末盧國~有四千餘戸~
草木茂盛行不見前人。
訳・・又一海を渡る千余里、末盧国に至る~四千戸余りある~
草木が生い茂り先を行く人が見えない。
参考 : 魏の使節到着場所は, 今日の佐賀県唐津市呼子辺り。
06 東南陸行五百里到伊都國~有千餘戸。
訳・・東南陸行五百里、伊都国に到る~千戸余りある。
参考 : 魏の使節到着場所は, 今日の福岡県糸島市三雲辺り。
07 東南至奴國百里~有二萬餘戸。
訳・・東南奴国に至る百里~二万戸余りある。
参考①魏の使節到着場所は, 今日の福岡県春日市の須玖岡本
遺跡辺り。
➁後漢書・東夷伝。
【~建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國
之極南界也光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升
等獻生口百六十人願請見~】
訳・・建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。
使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに
印綬を以てす。安帝永初元年(107年)倭国王帥升等、
生口160人を献じ請見を願う。
倭奴国は出先機関の楽浪郡ではなく後漢の都(洛陽)
まで使者を派遣した。授けられた金印〖漢委奴國王〗
は、1784年、博多湾・志賀島で出土した。奴国は今日の
福岡県春日市須玖辺りと推定されている。
北史・倭国伝 & 随書・俀国伝。
【~安帝時又遣使朝貢謂俀奴國~】。
訳・・安帝の時(106-125年)また遣使が朝貢これ
を倭奴國という。
08 東行至不彌國百里~有千餘家。
訳・・東行不弥国に至る百里~千戸余りの家がある。
参考 : 不弥国は、今日の福岡県糟屋郡宇美町辺り。