御無沙汰しております(汗)
10日以上更新が空いてしまいました。
理由としては「なんか仕事忙しい」「慢性的ネタ不足」の2つです。
毎年3月になると、予算云々の話等でやってられないくらい忙しくなるのですが、
今年は一足早く忙しくなっております。
その分3月が少しでもマシになればいいのですがきっと無理でしょうね。
さて、前述の通りお店についてはネタ不足なので、今回は京都検定談話です。
あ、そうそう。昨年12月に行われた京都検定3級ですが、無事合格できました!
点数は85点でした。次は2級目指して頑張ります。
今回もよく出る問題のお話ということで、「聚楽第」についてです。
聚楽第そのものはとてもよく出題されるのですが、実は公式テキストの索引には載っていません。
自分もこのブログを書くにあたり少しおさらいしようとテキストを振り返ってみたのですが、京都の歴史の部分で一瞬記載があるだけでした。これには少々驚きでした。
たしかに実際に過去問を振り返ってみても、出題のされ方としてはただ1つ
「天正15年(1587)、豊臣秀吉が、平安京の内裏跡である内野に築城した居館の名称は?」
です。
ちなみにこの文は第2回より抜粋しております。
前回No3を書いた時に、軽いノリで「聚楽第もよく出るから次のテーマにしよっと」
と思い予告してしまったものの、書くことが少なすぎました(汗)
ということで、検定には出ないのですがこぼれ話を
そもそも豊臣秀吉が築城したという非常に歴史的にも重要なワードがあるにも関わらず、
何故検定公式テキストに記載が全然無いのか。
これは完全に自分の憶測なわけですが、「既に無いから」「分かっていないことが多すぎるから」じゃないかと思います。
既に無いというだけが理由なら、平安京についても記載が無いはずですからね。
では何故分かっていないことが多すぎるのか。
当然文献が少ない・資料が少ないといった理由じゃないかとおもうのですが、実はこの聚楽第。
竣工からたったの8年で跡形も無いほどに壊されます。
聚楽第の広さについては、東西約600メートル、南北約700メートルと考えられ「二条城より一回り大きい」と表現されるそうです。
で、権威の象徴ともいえるこの聚楽第をなーんで8年で壊しちゃったのよ。って話ですが、
1587年に竣工された後、1591年に秀吉は甥の秀次に関白の地位を譲り、その時に聚楽第も譲りました。
これは「実子(鶴松)が死んでしまい、『息子に跡取りを』というのは無理かな」と秀吉が諦めたから甥に継がせたという説があります。
しかし1593年、あらびっくり実子(秀頼)が産まれてしまいます。
さあどうしよう。めっちゃ我が子可愛いけど関白は甥に継がせちゃったし。。。
という状況からなんかうまいタイミングで秀次に謀反の疑いがかけられます。
秀次は「いやいやいやいや!そんな気全くないって!!!」と否定するものの秀吉は信じません。
そして結果高野山に追放され、そのうえ秀吉の命令で切腹させられます。(秀次事件)
そして当時秀次の邸宅となっていた聚楽第も「謀反を謀った奴の邸宅なぞ叩き壊してくれるわ!」という意味なのか徹底的に壊されます。
それが1595年の話というわけです。
この事件によって、秀次は「自分の立場が危うくなったから謀反を謀ってバレて切腹した”殺生関白”」という汚名を着させられます。
ですが、近年では「謀反の事実は全く無かったのではないか」「わが子可愛さによる秀吉の陰謀ではないか」という説が一般的なようです。
なかなかエグイ話ですね。
というわけで聚楽第の話はここまでです。
次回ですが、次回は少し問題の話を外れて、3月18日まで開催されている「京の冬の旅」で特別公開をしているお寺の話をしたいと思います。
10日以上更新が空いてしまいました。
理由としては「なんか仕事忙しい」「慢性的ネタ不足」の2つです。
毎年3月になると、予算云々の話等でやってられないくらい忙しくなるのですが、
今年は一足早く忙しくなっております。
その分3月が少しでもマシになればいいのですがきっと無理でしょうね。
さて、前述の通りお店についてはネタ不足なので、今回は京都検定談話です。
あ、そうそう。昨年12月に行われた京都検定3級ですが、無事合格できました!
点数は85点でした。次は2級目指して頑張ります。
今回もよく出る問題のお話ということで、「聚楽第」についてです。
聚楽第そのものはとてもよく出題されるのですが、実は公式テキストの索引には載っていません。
自分もこのブログを書くにあたり少しおさらいしようとテキストを振り返ってみたのですが、京都の歴史の部分で一瞬記載があるだけでした。これには少々驚きでした。
たしかに実際に過去問を振り返ってみても、出題のされ方としてはただ1つ
「天正15年(1587)、豊臣秀吉が、平安京の内裏跡である内野に築城した居館の名称は?」
です。
ちなみにこの文は第2回より抜粋しております。
前回No3を書いた時に、軽いノリで「聚楽第もよく出るから次のテーマにしよっと」
と思い予告してしまったものの、書くことが少なすぎました(汗)
ということで、検定には出ないのですがこぼれ話を
そもそも豊臣秀吉が築城したという非常に歴史的にも重要なワードがあるにも関わらず、
何故検定公式テキストに記載が全然無いのか。
これは完全に自分の憶測なわけですが、「既に無いから」「分かっていないことが多すぎるから」じゃないかと思います。
既に無いというだけが理由なら、平安京についても記載が無いはずですからね。
では何故分かっていないことが多すぎるのか。
当然文献が少ない・資料が少ないといった理由じゃないかとおもうのですが、実はこの聚楽第。
竣工からたったの8年で跡形も無いほどに壊されます。
聚楽第の広さについては、東西約600メートル、南北約700メートルと考えられ「二条城より一回り大きい」と表現されるそうです。
で、権威の象徴ともいえるこの聚楽第をなーんで8年で壊しちゃったのよ。って話ですが、
1587年に竣工された後、1591年に秀吉は甥の秀次に関白の地位を譲り、その時に聚楽第も譲りました。
これは「実子(鶴松)が死んでしまい、『息子に跡取りを』というのは無理かな」と秀吉が諦めたから甥に継がせたという説があります。
しかし1593年、あらびっくり実子(秀頼)が産まれてしまいます。
さあどうしよう。めっちゃ我が子可愛いけど関白は甥に継がせちゃったし。。。
という状況からなんかうまいタイミングで秀次に謀反の疑いがかけられます。
秀次は「いやいやいやいや!そんな気全くないって!!!」と否定するものの秀吉は信じません。
そして結果高野山に追放され、そのうえ秀吉の命令で切腹させられます。(秀次事件)
そして当時秀次の邸宅となっていた聚楽第も「謀反を謀った奴の邸宅なぞ叩き壊してくれるわ!」という意味なのか徹底的に壊されます。
それが1595年の話というわけです。
この事件によって、秀次は「自分の立場が危うくなったから謀反を謀ってバレて切腹した”殺生関白”」という汚名を着させられます。
ですが、近年では「謀反の事実は全く無かったのではないか」「わが子可愛さによる秀吉の陰謀ではないか」という説が一般的なようです。
なかなかエグイ話ですね。
というわけで聚楽第の話はここまでです。
次回ですが、次回は少し問題の話を外れて、3月18日まで開催されている「京の冬の旅」で特別公開をしているお寺の話をしたいと思います。