義経、弁慶ともに、平泉の地で散ったと伝説になっているが、鎌倉での義経の首検分は腐敗がひどく、判別できなかったという。
そこから、実は義経は生き延び、北海道の地に逃げ延びたとか、果ては中国に渡り、チンギス・ハーンになったなどという俗説もある。
さすがにチンギス・ハーンにはならなかったと思うが、大陸に渡ったことは充分あり得る話だと思う。
そこまでして本人が生き延びたいと思ったかは謎であり、歴史のif(イフ)。

歴史には謎が多いが、人はいずれどこかで死ぬもの。
そういう点では平泉の地で死んだという設定の方が物語としてドラマチックとは言えるだろう。
当時の鎌倉幕府に義経を北海道まで追いかける力はなかったろうから、この辺で手を打とうとなったとも考えられる。私見だけど。

義経は平泉の藤原氏に拾われて、源氏の若君として絶大な支援を受けた。
これは、京都の朝廷からの外圧(平家からの外圧と言ってもいい)に対抗するための準備という政治的な側面もあるだろう。
源義家の東北征伐の頃からの源氏との深い縁も歴史的にはあるだろう。
平家は西日本に根を張っていたから、平家と対抗するためには、源氏の御曹司を祭り上げるのが自然だったのだろう。

ところで、東北は馬の飼育に適しており、日本の騎馬は東北でさかんになったという話を最近聞いた。
そうすると、義経は騎馬術を平泉の地で習得したと考えられる。
おそらく、鵯越の逆落としの戦法も平泉での経験の応用だったのだろう。
野生の鹿が断崖絶壁を苦もなく上り下りするように、馬にも人間には見えない道が見える。
人間よりも動物の方が優れている一面もあるのだ、当然のことだけど。