葬送のフリーレンを観て思ったこと。

 僧侶が言う。死後の世界があるかどうかわからないが、あると考えたほうが救いがある。魔王討伐でいのちをかけた人が死んだら終わりなんて悲しすぎる。だから、死んだら、神様に思い切りほめてもらって、天国で飲めや歌えのどんちゃん騒ぎするのを私は楽しみにしてるんです、と。

 ドワーフが言う。死んだらなにも残らない、
それはドワーフに伝わる信仰だ、と。

 エルフが言う。死んだらどうなるかなんてわからないけど、死んだ人と話ができるという場所があるなら、そこには行ってみたい。そこで死んだ人に会えるのなら、会って話がしたい、と。

 死後の世界の話には、諸説ある。

 宇宙と一体になる、という人もいる。

 死んだ家族が今もそばにいてくれる、という人もいる。

 三途の橋を渡る、お花畑がある…死んだが蘇生した人々が見た世界はいろいろだ。

 仏教には四十九日(しじゅうくにち)があり、この世からあの世に旅立つために、この世の人たちに別れを告げるための時間とされている。
 
 死ねばわかることだが、生きているうちはわからない。だから、そのわからないことを宗教が補完していたんだろう。

 私が書く物語は、死んだらスピリットになることが前提。
 スピリットというのは霊魂のこと。
 霊というと幽霊とか悪霊とか、おどろおどろしいイメージがあるので、スピリットと呼んでいる。
 あの世が実在界で、霊魂はあの世からこの世に一時的に転生する。この世で生きるには乗り物が必要だから、肉体(胎児)に霊がビルドインする。その時に妊婦さんがウエッてなる、それがつわり。
 こういう話をざっくばらんにお茶飲みながらするのがお坊さんの本来の仕事、辻説法。冠婚葬祭の時だけ話せばいいというものではない。
 私はお坊さんではないけれど、物語を通じてこういう話をしたい、伝えたい。

 宗教がダメになり、スピリチュアルも胡散臭いと言われたりもする。
 これだけが真実だ!と大上段に構えても、みんなわからない。だから、ことの真偽は一人一人が判断すればいい。一人ひとりに信じるものがある。

だけれども、世の中の常識と言われるものは疑ってみるといい。
 価値観はさまざまだから、価値観の多様性を認める社会になればいい。物質的価値観一辺倒というのは、私は嫌だ。

 死なねばわからぬこともある。

 作家活動でコラボしていた方々の何人かはすでにこの世を去った。ご家族を見送った方々も数多い。

 私もいずれ死ぬ。
そのとき、私だけに見えていた世界もいったんは終わる。

 私が残すべきものが残りますように。