悔い改めなさい。
キリスト教の教えには
なんじ、悔い改めよ
というフレーズをよく聞く。
教会に懺悔の部屋があり、
神父が信徒の懺悔の言葉に耳を傾ける。
それは、主であるイエス・キリストから
悔い改めよ
と言われているからだろう。
ふと思う。
なんて、重い言葉なんだろうと。
命令形であり、
上から目線が?と反発する向きも
あるかもしれない。
悪いこと、なんもしてないのに、
なぜ悔い改めなあかんの?
ぼく、なにも悪くないもん!
と開き直る向きもあるだろう。
逆に反省ばかり、悔いてばかりいて、
クヨクヨして、
これ以上、反省なんてできない!
と逆ギレされるかもしれない。
この言葉は、反省を促す言葉でもある。
自分のした過ちを悔いて、
もう二度としないぞと改めることを
主に宣言する。
まさに反省する。
反省は、生き方の基本動作でもある。
過ちを犯さない人間はいない。
過ちをゆるすのは大変難しい。
批判し、裁き、断罪する方が簡単だ。
自分が正義の味方になったような錯覚に酔いしれる。
SNSなどでよく見られるディスるという行為は
自分を正義の味方にしたいという承認欲求の表れでもある。
だが、過ちをゆるすには、大きな愛がいる。
過ちを犯した相手に更生の機会を与えるためにも
ゆるすことは必要。
つまり、悔い改めたら、ゆるす
これがセットになっている。
じゃあ、悔い改めなければ、ゆるされないのか?
と言われる向きもあるだろう。
誤解を恐れずに言えば、そうである。
原因結果の法則により、
悪因悪果、悪いことの報いは本人に必ずかえる。
人を殺して、つかまらずに、この世の生を終えたとき、
あの世で審判が待っている。逃げられないのである。
だから、
今ならまだ間に合うよ、
悔い改めなさいよと、
主イエスは諭してくださっているのだ。
と、私は観じる。
いつかの前世は、敬虔なキリスト教徒だったにちがいない(笑)