【魂の乗り舟】

私たちは、
魂という船頭であり、
肉体という、
この世を渡る舟に
乗っている。

私たちは、
この世にいる時は、
肉体を離れられない。

私たちの
この世での旅は、
肉体の生とともに始まり、
肉体の死とともに終わる。
それは、
肉体という乗り舟に乗り、
この世をめぐり、
そして降りる。
そのひとつの、
魂の冒険の旅が、
私たちの人生だとも言える。

しかし、
私たちは、
神より
永遠なる生を与えられし
旅人。

肉体という乗り物を降りても、
また別の乗り物に乗り、
別の世界を旅する。

地球という星は、
まことに多様な、
多次元の世界が
織りなす場所。

私たちは、
この世で過ごす以外の
多くの時を
天国で過ごしてきただろう。
だが、この世にて、
罪を作りし時は、
すぐに天国へと戻らずに、
反省のため、
自ら地獄へと赴くこともあるだろう。
そういう時もあっただろう。

私たち、
永遠なる魂は、
三千世界を旅してき、
その記憶のことごとくを
魂に刻み込んでいる。
もう幾度、
この世に肉体を授かり、
この世の生を楽しんだことだろう。
その度に、
私たちは、
ちがう国、
ちがう場所、
ちがう言葉のもとで、
その人生を謳歌し、
そして、肉体を去ったのだ。

今は、その記憶が
この世での旅には
不要であるゆえに、
魂の中に
封印してあるにすぎない。
ただ、
忘れているだけのこと。
ただ、
思い出す必要がないだけのこと。

常に、
私という魂は、
私という肉体の中に、
鎮座ましましている。
私という魂を中心に
世界は回る。
私たちが動くとき、
まわりの風景が動くように
見えるだろう。
自分が歩いていても、
自分は常に動かず、
まわりの風景が
うつろいゆく。
そんな当たり前の事象の中にも
神理は宿っている。

まさに、
私という魂を中心に
世界は回る。
すべての人が
世界の中心。
すべての私が
世界の中心。

肉体を失っても、
私が失われることはなく、
まわりの風景が変わるだけ。
死を迎えた人に
平安があるのは、
そのためなり。

死は、
この世を生きる目で見れば、
不幸にうつる。
死にゆく人との別離が
悲しいゆえに、
そのあまりの悲しさゆえに。

だが、死を
平和な時の中で
迎えた人にとっては、
あの世から迎えが来、
「人生修行ご苦労様でした」
と、声をかけられた時に、
ああ、そうであったのか、
やはり、
死後の世界はあったのだなと、
得心し、
安心する。
それは、魂の目覚めの時。
新たなる転生の時。

この世から
あの世への
転生。
死を転生ととらえたら、
そこに不幸はない。
死を迎えた魂に
祝福あれ!

肉体を離れた人の魂の旅は、
まだまだ続く。
あの世を旅するための
新たな霊的肉体を持ち、
旅を続けるのだ。

この世に住まう人びとよ。
今はわからずともよい。
ただ、その可能性を
頭から否定するでない!
死後の世界の有無は
科学という物差しでは
はかれぬのだから。

わからぬのならば、
態度保留。
それでよいではないか。
ないと断じれば、
死を迎えた瞬間に、
この世に未練を残し、
さまようことになる。
魂が
道に迷うことになる。

肉体を持たずに
この世に残るは、
魂にとっては不幸。
もちろん、
それを望めば、
その時を経験できるだろう。
すべての選択は、
自己責任。
自分が選んだことの結果は、
自分に返ってくる。
それもまた、宇宙のことわり(理)。

しかし、
友よ、
聞くがよい。
新たな時代のこの時に、
まごまごしている余裕はない。
地球自身が
新たな星、
本来の使命を
遂行するために、
愛の星に
生まれ変わろうと
している。
そのような
大建て替えの時、
それが今という時代。
今という時。

そんな時に、
迷うことなく、
天国へと
戻って来られるよう、
道を開いておく。
道を用意しておく。
だが、
その道に
乗るも乗らぬも
あなたがた
一人ひとりの
思いひとつ。

あなたが生まれる前にいたところに
無事に帰ってくるように
われわれは
固唾を飲んで、
見守っている。

魂の旅人よ。
永遠の旅人よ。
肉体は
魂の乗る舟と
知りなさい。

よっくる