【正しさとはなんやねん】
私の人生の目的は、正しい価値観の探求にあった。
正しい価値観を示すと思われる情報は知るように努めてきた。
若い頃は、倫理社会という科目が好きだった。
先人の知恵や哲学的な思想には共感するところが多かった。
物質的価値観にはあまり興味がなく、霊的価値観こそがこれからの時代の羅針盤となると信じ、情報を収集した。
多くは先人の残した書籍やスピリチュアル系の書籍からの情報だったが、情報を知るごとに世の中の仕組みがわかったような気持ちになった。
だがしかし、価値観とは知識や情報ではなかった。
いかに生きるかを決めるものさしなのだ。
なんじ、いかに生きるべきや?
それを問われているような気がする。
情報は鵜呑みにしないというのが私の基本的スタンス。
知ってからも、それが正しいかどうか検証し続ける。
自分にとって正しいと思えるかどうかが重要。
他の人がどう思おうが関係ない。
とは言え、大多数の信じる常識もバカにはできない。間違っていることもあれば、正しいこともある。
自分の中で取捨選択する必要があると思う。
テレビのニュースが正しいと思えなくなったのはいつからだろう。
ニュースのすべてが間違っているわけではないが、よいニュースは報道されず、悪いニュースばかりが繰り返し報道されるように感じる。
よいニュースよりも悪いニュースを大衆が好むせいもあろう。
人の不幸は蜜の味とはよく言ったもの。
ただ、そんなニュースばかりを見ていると、この世はひどい世界のように思えてくる。
実際は逆であり、この世界は素晴らしいことの方が多いが、悪い出来事もたまにあるというのが真実。
たまに起こった悪い出来事ばかりがニュースになるというのは、いかがなものか。
これが報道のゴシップ化だと思う。
報道はもっと公平であるべきだ。
ネット社会は情報があふれている。
情報化社会と言われて久しいが、人は情報を知ることで、これからの生きる方向を考えたりするものだ。
したがい、情報を操作することで、人をある方向に先導しようとする輩が現れる。
米国大統領選挙前のトランプ英雄論などは政治的な情報操作だと感じたので、信用しなかった。
反政府な思想はノンポリの私には共感できないこもが多い。
政治思想はその人それぞれの価値観そのもの。とやかく言うつもりはないが、議論するつもりもない。
だが、情報戦の背後には政治的な意図を感じる場面が多いので、注意が必要だ。
ころ奈やわくちーん情報もしかり。
それらに関する情報そのものには価値があると思うが、最後に政府批判や個人批判がくっついているものは、どうも頂けない。
結局、それが言いたいんだろ、とツッコミたくなるのだ。
情報には主観的意見が含まれるので、そこは選別する必要があると思っている。
よっくる