【日向 ~ある女王の生涯~】
私はヤマトの国を治める女王の側女の一人をつとめておりました。
女王の名は、日向(ひむか)様とおっしゃいました。
とても聡明で、美しい方でございました。
ヤマトの国は、近隣国の盟主として、諸国を束ねる役割をになっておりました。
男性が王に立つと、諸国の王たちは、互いに競い合い、なかなか一つにまとまることは難しい面がございます。
どうしても、力で相手を屈服させようとするのです。
そのせいで、男性の王が立つ間は、近隣国との争いが耐えず、お互いに疲弊してしまう、暗い戦乱の世が続いておりました。
それが、日向様が女王に立つと、ピタッと収まったのです。
それは、日向様が神の言葉を皆に伝える巫女であり、神託による無私・無欲の政(まつりごと)を行ったのがよかったのかもしれません。
当時の人々は、素朴な農耕社会を営んており、神に対して敬虔なところがありましたので、日向様を通して語られる神の言葉に、皆、従ったのです。
ある意味で純朴な時代でございました。
私も、幼い頃より神に仕える巫女として育てられましたので、成人してからは、日向様を支える巫女の一人として、おそばに仕えたのでした。
巫女にもいろいろな力を持った方がおりますが、日向様のお力はずば抜けておられましたので、時の王からも大変頼りにされておりました。
でも、まさか、その王のあとを受けて、女王になるなど、日向様も、思いもよらなかったでしょう。
王が病に倒れられ、余命を悟られた際に、神託により、後継者を誰にすべきかを決めることになりました。そして、神様が選ばれたのが、当時、まだお若い日向様でした。
王に呼ばれ、神託の内容を聞かされた日向様は、青ざめた顔をされ、しばらく考えさせてほしいと、王に願い出たそうです。
そして、自らも神に問われたのです。自分が女王としてふさわしいか、と。
答えは、然り、とだけあったようでした。
それならばと、日向様も腹をくくられて、女王のお役を受ける決心をされたのでした。
その後、王は、日向様の願いにより、日向様の弟君をお呼びになり、日向様を女王に立てるので、その補佐をするようにと、申し渡されました。
弟君も大層驚かれましたが、
「この一命に替えて、お守りいたします」
と、慎んで、お役を受けられたそうです。
王は、おもだった家臣たちを集め、日向様を自分の後継者に指名したことを伝えました。
そして、これは神の決めたことであるから、みな従うように、と命じました。
異を唱えるものは、誰もいませんでした。
当時は、王を世襲により決めるのではなく、神託により決めることは珍しくありませんでしたが、女王が立つことは、珍しいことでした。
女王を立てることが、他国には弱腰に映るのではないか、と危ぶむ臣もいましたが、とりあえずは女王の力を見極めようというのが大方の見方だったようです。
王は、自分が生きているうちにと、禅譲をなさり、日向様は女王に即位されました。
日向様は、弟君を大臣に取り立てると、神のご託宣に忠実に、政を行うことを宣誓されました。
それは、ご自分を女王に選ばれた神に対する誓いでした。
そして、ヤマトの国が近隣諸国と友好的に付き合えるように、近隣国の王あてに貢物を送り、ゆるやかな同盟を築くことを呼びかけられました。
近隣国からは新しい女王のご機嫌伺いに、使者が送られてきましたが、日向様は、各国の使者を手厚くもてなし、それぞれのお国事情に合わせて、神から授かった知恵を授けました。
例えば、日照り続きで困っている国には、もうすぐ雨が降るので、雨をためておける水瓶を用意するようにアドバイスしました。
使者がその伝言を持ち帰ると、その国の王は、半信半疑ながらも、たくさんの水瓶を用意しました。
すると、日向様のお言葉通りに雨が降り、その国は大いに助かりました。
その国の王は、いたく喜び、女王と友好な関係を結ぼうと、さまざまな貢物を贈り、臣下の礼をとりました。
そのようにして、近隣国が少しずつ、日向のご神託に従うようになりました。
こうして、ヤマトの国を中心に諸国がゆるやかに連合し、あたかも一つの国のごとくに治まるようになったのでした。
諸国は、何か問題が起こるたびに、日向様にご神託を依頼され、そのため日向様は毎日多忙でおられました。
国内には日向様の権勢を妬む者たちもおり、心が休まる時がありませんでした。
私は日向様がお気の毒でございましたが、日向様は凛とされて、周りのものに弱みを見せることなく、気丈に振舞っておられました。
私はそんな日向様にお仕えできることに誇りさえ感じておりました。
日向様は、女王になるべくして生まれてこられたお方に違いない、そう思ったのでした。
ある時、私が日向様の御髪をすいている折りに、
「女王様は、なるべくして、おなりになられたように思います」
と申し上げたところ、
「これ、そのように人をおだてるものではない」
と、私をお諌めになりました。
でも、そのあとで、少し微笑みながら、
「こういう立場に立つことは嫌ではない。
私の心のどこかに、このような経験をかつてした記憶があるように思う。」
と、おっしゃられました。
私は、私の言ったことを日向様が認めて下さったような気がして、うれしく思いました。
また、ある時、諸国連合の中でのヤマトの国の権威を強化するには、大陸の国の後ろ盾を得たほうがよいという話になりました。
まだ、ヤマトの国に反抗的な国があり、何らかの対策が必要な時だったことも、理由の一つでした。
大陸から渡ってきた人がもたらした情報によれば、大陸の国は、今、三つに分かれていて、その中で北方全域を治める魏という国がもっとも力を持っているとのことでした。
諸国の中には、抜け駆けして、大陸に使者を送っている国もあり、そうした国が大陸の国の後ろ盾を得ると、ヤマトの国にとって、脅威になるとのことでした。
日向様は、神託をあおぎ、魏の国に送る家臣と持参する貢物の内容、海を渡る時期や戻ってくる時期などを事細かに大臣に伝えました。
そして、その通りに使節団が派遣されたのでした。
当時、大陸に渡る航海は命がけであり、途中で海の藻屑となる危険の高い試みでしたが、神がついているから大丈夫、と、みな、命がけで船に乗り込みました。
この計画が失敗すれば、日向様の権威は失墜し、女王の座を追われるかもしれない、そんな不安で日向様は、苦しい思いをされていました。
何か問題が起こると、諸国間の調和が崩れ、また、戦乱の世に逆戻りしてしまう。
そう思うと、食事ものどを通らず、眠ることもままならず、日向様は、おやつれになりました。
でも、そのような姿を御簾の後ろに隠して、健気に政を行う日向様でした。
私は、そんな日向様がお気の毒で涙が止まりませんでした。
女王にならなければ、このようなご苦労はなさらなかっただろう。
そう思うと、一人の女性に対し、神はなんと過酷な運命を背負わせたまうのだろうかと思いました。
ですから、魏の国より使節団が帰ってきた時の人々の喜びは、大きなものがありました。
送った貢物より多い返礼の品々を見ると、魏という国の力の大きさを感じ、この国がヤマトの国の後ろ盾となってくれたことにより、ヤマトの国の権威はより強固なものになるように思われるのでした。
日向様は、その日、深く深く神へ感謝の祈りを捧げられたのでした。
日向様は、後に私に言われました。
「ヤマトの国は、神に守られています。
私たちが神に対する礼儀をわきまえ、感謝の気持ちを持ち続けている限り、この国には神のご加護が降り、人々は、弥栄(いやさか)に栄えるでしょう。
けれど、戦乱は、神に対する敬虔さをなくした人々が、我欲に溺れた時に起こるもの。
それは、けっして神の与えたもうだ罰ではなく、人々が我欲のままにふるまった結果として起こるだけのことなのです。
私は、戦乱なき世を願い、女王の役をお受けしています。
私が神の言葉をお伝えし続ける限り、ヤマトの国の平和は保たれるでしょう。
しかし、私が神の国に帰ったあとは、おそらく男性の王では平和は保てぬでしょう。
諸国が調和を保つためには、女性の持つ、すべての子らを包み込む母性が必要なのです。
やがては強い王が出て、神のご加護を得て、諸国を正義の力で平定され、ヤマトの国が真に一つの国となる、そういう時代も訪れましょう。
でも、それまでは、まだまだ女性が上に立つ必要があるのです。」
日向様は、その後、積み重なる心労により、床に伏しがちになられましたが、その残された力を振りしぼり、神の言葉を地上に降ろし続けられました。
しかし、日向様の影響力の低下は避けられず、対立国の台頭を許すことになり、ご心労が重なったためか、病を得て、亡くなられたのでした。
日向様が亡くなったあと、再び男性の王が後を継がれましたが、諸国からの圧力は激しさを増し、また戦に明け暮れる日々が始まってしまいました。
国が乱れることを好まなかった諸国の王たちは、合議して、再び女王を立てるよう、ヤマトの国の王に申し入れました。
ヤマトの王は渋い顔をしましたが、巫女に神託をとらせると、女王を立てれば、乱が収まると出ましたので、しぶしぶ、巫女たちの中から一番能力が高いと言われている若い巫女を女王に指名しました。
その女王の名は、トヨと言いました。
トヨが即位して後、乱は再び収まり、平和な世の中になったと言います。
了
(絵は松本さんに描いて頂きました。
プロフィールご紹介します。)
開運書画家
〜松本錦霤(キンリュウ)〜
書画篆刻などによる「咲く品」を展開。
手にした人に笑顔が咲くように!
書歴38年、岩手大学で書道を専攻
画は切り絵を中心に活動30年目
各種公募展入賞
令和元年
天地開闢以来初の
「富士山頂揮毫奉納」を実現
以上