【映画レビュー レ・ミゼラブル】

海外出張の楽しみは、飛行機の中で見る映画。
普段、なかなかゆっくり映画を見る時間がとれないので、飛行機でのまとまった時間は貴重な時間だ。

今回の旅では、ついに念願の「レ・ミゼラブル」を鑑賞することができた。
名作の誉れ高い作品と評判を聞いていたので、是非、見たいと思っていたが、映画館に足を運ぶことはかなわなかった。
セリフがすべて歌になっているミュージカル映画、というのも、興味を引かれた。
また、とてもスピリチュアルなテーマを扱っているとも聞いていた。

私も昔、「ああ無情」を本で読んだことがあるが、あまりにも暗い内容についていけず、好きになれなかった記憶がある。
フランス革命後の混沌とした時代が舞台であるせいかもしれない。
世に貧困があふれ、暗い世相だった。
主人公のジャン・バルジャンが刑務所あがりで社会的差別を受け、その葛藤が物語に暗い影を落としている。
要するに、原作には暗い、ネガティブな印象しか持っていなかったわけだが、ミュージカル化もされており、今回の映画も、ミュージカル版を映画化しているようなので、原作とはテイストが変わっているのかもしれない。
言わば、期待半分、不安半分で、
見始めた。

感想としては、いい映画だった。
特に後半の革命へと動く学生を中心とした若者たちの盛り上がりは、幕末の志士にイメージがかぶるものがある。

主人公は、母親と死に別れた娘を引き取り養女として育てたが、その娘が大人になり、革命に燃える青年と恋に落ちたのを知り、自分のもとを去るのではと苦悩する。しかし、革命に敗れ、瀕死の青年を目の前にして、自分の命と引き換えに、青年に未来を与えてほしいと、神に祈る。
その真摯な祈りは神に届き、青年は一命をとりとめ、若い二人は結ばれるのだ。
この主人公の行動は、この映画のクライマックスである。
娘の幸せを願う、主人公の、親としての愛から出た行動であり、年老いた自分の生よりも、若者たちの生を優先する年長者の愛である。

主人公は、娘を育てる過程で、娘に親として愛される経験をし、その経験を通して愛を学んだ。
それがそれまで一人孤独に生きてきた主人公の人生に、大いなる彩りを与えたのだろう。
前科者の烙印を押され、社会からドロップアウトしていた主人公の半生は、闇にとらわれし男の悲哀に満ちていた。
それが、最初に出会った牧師の与え切りの愛により救われ、今また、娘の親を愛する無垢なる愛により、また救われたのである。

憎しみは、連鎖するが、
愛もまた、連鎖する。

主人公がとらわれていた憎しみの連鎖を断ち切ったのは、主人公にパンと銀の燭台を与えた牧師の愛。
主人公にとって、牧師は愛を教えてくれた初めての人であったろう。
その出会いにより、主人公の人生は転回し、闇より愛の方向へ舵を切った。

その後の人生においても、いくつもの葛藤があり、自分と間違われて逮捕され、裁判を受ける男を救うために、主人公は、無から築き上げた成功の人生を投げ捨てる。
これなどは、物質的価値観に支配されていれば、けっしてとらない選択だろう。
確かに名乗り出ぬ罪を背負えば、死んでから地獄の業火に焼かれる苦しみが待っている。
さりとて、彼には彼の工場で働く労働者たち、市長である彼の善政に助けられる多くの市民たち、そして、目の前には幸薄い娘を助けてほしいと哀願する、絶望の淵に立つ母親がいたのだ。

「最大多数の最大幸福」という価値観からすれば、名乗り出ず、自分と間違われて投獄される男を見殺しにしたとして、誰が主人公を責められよう。
ただ、彼は、その究極の選択において、ただ、自分の良心の声に従った。
真なる神の子としての内なる声に従ったのだ。

「フー・アム・アイ?」

私は誰だ?、と繰り返し映画の中で主人公は、自分に問うた。
重い問いだ。
本当の自分の名を認めれば、彼は成功の人生を捨てるのだ。
だが、彼は、心のどこかで気づいていた。
成功の人生がすべてではないこと。
その人生の延長線上に自分の求める幸せはないこと。
自分を偽り、隠して生きおおすのは難しいこと。

そして、彼の魂は、彼の本来の名前である、ジャン・バルジャンとして生きることを選んだ。
あらゆる打算を超えて、彼は内なる声に従ったのだ。

ここに、彼は、新たな生を受けたと言えるだろう。
いったんは成功者となった自分を殺し、
たとえ、警察に追われる身になっても、自分らしく生きる。
それを主人公は選択してのけたのだ。

そして、その結果、彼は母親と死に別れた、幸薄い娘と出会い、彼女を絶望の淵から救い、幸せにするという新たな使命を引き受けることになった。
そこから、彼の、愛に包まれた新たな人生が始まったのだ。

孤独に生きてきた男にとって、自分を愛してくれる存在が身近にいるというのは、どれほどの幸せであろうか。
おそらく、それは、彼の人生にとって、最高の、至福の時であったに違いない。

人生の転機というのは、過去の自分から脱皮して、新たな自分に生まれ変わり、未来を生きること。
主人公は、そうした人生の転機を幾度も乗り越え、変わることを選択し続けたのだと思われる。

なんという深い物語か!
映画レビューをこうして書いてみて、初めて気づかされた。
闇を切り抜けて光へ、愛へと導かれた男の人生叙事詩。
この物語が多くの人々に読まれる理由がやっとわかった。
なぜ、ミュージカルや映画としても人気を博しているのかも。

最後に、映画のラストシーンは、神理を知るものにとって圧巻だ。
肉体を離れた主人公は、あの世の世界に旅立ち、そこで革命に命を燃やした若者たちの歓喜の歌声を聞く。
母国フランスのために命を捨てた若者たちは、あの世では天使たち。
彼らの希望の歌声は終わることなく、あの世の世界に響き渡るのだ。
終わりよければ、すべてよし。
この場合の終わりとは、あの世に帰った時に、どれだけ自分の人生に満足したか、納得したか、悔いを残さなかったかを自らの神性に問いかけることであろう。
そして、「よくやった!」と、内なる神にほめられたら、ひとまずその人生は一区切りとなるのだ。
反省多き人生ならば、その反省が終わるまで、真の終わりにはならないのかもしれない。

余談だが、フランス革命前後の時代は、中世の王政が崩壊し、近世の民主主義が産声をあげる時代の変わり目である。
こうした時代に好んでこの世に生まれたがる魂は、私だけではあるまい。

よっくる


P.S.
「歓喜の歌」の動画がいくつかYOUTUBEにアップされています。
 ミュージカル版の日本語バージョンもありますので、是非お聞き下さい。