天龍寺
     (てんりゅうじ)


御朱印 



「覺王寶殿(覚王宝殿)と書かれています。

「覺王」(覚王)というのは、天龍寺のご本尊である釈迦如来のこと。
ご本尊の「釈迦如来」を祀るお堂のことを指す言葉なのです。 


真ん中の丸い印は
「仏法僧宝」の印
仏教で重んじられている 仏、法、僧の三つの宝で
この三宝への帰依が仏教において重要なことなのだそうです。



臨済宗天龍寺派の大本山

正しくは
霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)

足利尊氏が後醍醐天皇を弔う為に1339年(暦応2)夢窓国師を開山として創建されました。






 
日本で最初に史跡・特別名勝に指定され1994年(平成6)12月には「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録。


臨済宗といえば、京都五山。 
五山というのは寺格制度の1つです。 

インドの古い仏教施設を天竺五精舎(てんじくごしょうじゃ)といい、それを真似て 中国の宋時代に、禅宗の保護と統制を目的に、禅寺の5つの寺院を選んで保護を与えました。 

🇯🇵日本がそれを真似て鎌倉幕府によって五山が制定されました。 

五山は室町幕府が帰依した臨済宗の寺院からのみ。


その五山とは‥‥ 
別格・南禅寺 
1位・天龍寺 
2位・相国寺 
3位・建仁寺 
4位・東福寺 
5位・万寿寺 



すごい観光客です😅



まずは
 法堂(はっとう) 

中には開基である足利尊氏の木像が祀られています。 


(ネットからいただきました)

天井には直径9メートルにも及ぶ「八方睨みの龍」 


どこから見ても、こちらを睨んでいるような龍のことですね 



庫裏(くり)

台所兼寺務所の役割がある建物です。
禅宗の開祖・達磨大師を描いた達磨図(だるまず)





方丈






藤原時代の釈迦如来坐像を安置。
こちらにも大きな龍がいました。

襖絵です。



夢窓国師(むそうそせき)設計による「曹源池庭園」

正面の枯山水の三段の石組は「龍門の滝」といい、これは中国の故事に由来するそうです。






竹林もみえます




多宝殿


中には後醍醐天皇像が祀られています。



天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇を弔う為に創建されたのですが、
この二人は仲が悪かったのでは??

なぜ尊氏は、後醍醐天皇のために天龍寺を建てたのかな?と思い、調べてみました。



1192年に源頼朝 が 鎌倉幕府を開いてから幕府に対する不満が世の中に広がっていました🌀

当時の天皇である後醍醐天皇足利尊氏と協力して鎌倉幕府を倒します❎


その後、後醍醐天皇が中心となって政治を取り仕切る「建武の新政」へ。



しかし
後醍醐天皇は一緒に幕府を倒した足利尊氏や武士に恩賞はほとんど与えず、世の中の不満が高まり今度は足利尊氏は後醍醐天皇と戦いが始まります。

後醍醐天皇側で足利尊氏と戦ったのが
あの楠正成!!

結果的には、足利尊氏に負けた後醍醐天皇は幽閉され吉野山で「南朝」を
京都には足利尊氏が後醍醐天皇を天皇の座から引きずり落として別の天皇を擁立した「北朝」が!

同時期に天皇が2人存在するという
「南北朝時代」が始まります。

北朝と南朝の間で何度も戦争をして、最終的には足利尊氏がいる北朝が勝利しました。



南朝の後醍醐天皇は深く北朝を恨んで死んだと伝えられ
足利尊氏が後醍醐天皇の怨念を強く恐れその怨念を弔うために天龍寺を建てたと言われています。



ところが‥‥
戦いの続いたので足利尊氏は天龍寺を建てるためにお金に困っていました😢
そこで元(中国) との貿易で儲けて天龍寺建築の費用にあてました。
その貿易に使っていたのが、天龍寺船という船だそうです



歴史にも全く詳しくない私が調べて簡単にまとめたので間違いがあるかもしれませんので、お許しください。
そして、間違いがあればぜひ教えてくださいね。
お願いしますm(_ _)m


☆御朱印をいただいた日と、お参りした日は違うので、写真は全く紅葉はしていません😅


*山号【霊亀山】
*院号【】
*寺号【】
*正式名称【霊亀山天龍資聖禅寺】
*宗派【臨済宗天龍寺派】
*ご本尊【釈迦如来】
*札所等【神仏霊場巡拝の道 第88番】
*開基 【足利尊氏】
*創建年【 1345年(1345年)】
*住所【京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68】


御朱印は納経、参拝の証としていただいています💕🙏


参拝できましたことに感謝いたします

最後までご覧いただきありがとうございました🎵