真言宗智山派の総本山、智積院
数年前にいきました
智積院は、正式には五百仏山根来寺智積院 (いおぶざん ねごろじ ちしゃくいん )といいます。
根来寺??
智積院と根来寺は関係があります。
和歌山の根来寺なら昨年にいきました
根来寺は、鎌倉時代中期に頼瑜(らいゆ)僧正が、真言密教の道場である大伝法院を高野山から移したことによりたいへん栄えました。
最盛期には2900の坊舎と、約6000人の学僧がいたといいます。
智積院はその根来寺の塔頭のひとつとして建立されました。
学問の中心地として巨大な勢力を持つようになった根来寺は、豊臣秀吉と対立し天正13年(1585)秀吉軍の攻撃で堂塔のほとんどを失ってしまいます。
その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)は、弟子や信者を連れて京都へ逃れ、あちらこちらを流浪してたいへん苦労したそうです。
豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、徳川家康から土地を与えられ、京都東山の地でようやく智積院の再興に着手することができました。
その後、豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)を家康より寄贈されました
祥雲禅寺とは、
3歳で病死した秀吉の愛児・鶴松(つるまつ)を弔うために建てられたお寺です。
そして、智積院の基礎ができあがりました。
本尊の金剛界大日如来も高野山から根来そして京都へと受け継がれ、興教大師の教えを伝えているのです。
江戸初期を代表する池泉廻遊式庭園は、中国の廬山を形どったといわれ、
受付のすぐに横にある収蔵庫には、長谷川等伯一派による桜・楓図(国宝)など極彩色の障壁画を展示されています