十四 遺言状

 

 先の村瀬栲亭と松村呉春の会談からおよそ一月後、文化五年初秋、もう秋成の死が一年ほどに迫っているころ、秋成は遺言状を認めている。

 

申遺候

命終の後庵内中の小物間斎貴兄道八三人立会配分ありたく候右の段申遺候

上田余斎 金成 文化五年七月廿一日

 

 文中、間斎は昇道、貴兄は手紙の宛先である松本柳斎で、道八は二代目高橋道八である。二代目高橋道八は西福寺にある秋成陶像を作った初代高橋道八の子である。

 松本柳斎が、鶉居に飛び込んできた。鶉居には主人の秋成はおらず、隣家の大沢春朔がひとりぽつねんとしていた。

「翁はおられぬか」

「翁は西福寺だ。蓮様に何やら書き物をしてもらっているようだ」

「すると、この遺言状も蓮様の筆かもしれん」

「何、遺言状だと」

「そうなのだ。私に届けられたのだが、遺言状の宛先は昇道殿と私と道八になっておる」

「して、その中身は」

「庵内の小物を三人で配分せよとある」

「庵内の小物か。何にもないぞ。茶道具が二、三あるのみだ。肝心の草稿類や書籍はすべて西福寺に持っていかれたからなあ」

「それにしても、どういう料簡で遺言状なぞ認められたのだろう」

「西福寺の墓といっしょさ。あのときも、自分の寿命である六十八歳を過ぎたのだから、これから、いつ死んでもおかしくないと思われたのだろう、周りの者に迷惑をかけたくないから、あらかじめ墓を立てられたのだ。今回も、いつ死んでも周りがもめないように、遺言状を書かれたのだ」

「しかし、庵内の小物では争いようもないな」

「これは、いつもの偽りの真実だな。夢の井に捨てられた幻の草稿五束と同じさ。真実は遺産分けを生前に行っていたということにされたのだ。事実は、遺産なんてないのさ」

「これを見てくれ。おぬし宛ての遺言書より、よっぽど遺言書らしい。私が翁のいないとき、竹籠の中から取り出して書き写したものだ」

「お前は、翁のものをなんでも書き写すのだな。翁が亡くなられた後には価値が出るから、大事に持っておかれることだ」

と、言って、柳斎は春朔のくれた草稿を読み始めた。この草稿は、春朔が大事に保管した甲斐あって、後の世まで残り、大正七年、藤井乙男が著した『秋成遺文』の中の「異本胆大小心録」と題された文の中に載っている。秋成の半生が語られていて貴重である。

 

 わかい時は人のすすめて、俳かいといふ事習ふたれば、「さつてもさつてもよい口じや」とほめられたので、四十にちかいまで、是を学ぶにひまがなかつた。人の云ふは、「歌よんだがよい。俳かいはいやしい物じや」といわるるに、ふと思ふたは、歌はお公家さまの道じやとおしやれば、こちとのよんだとてと思ふたけれど、人のすすめにて、下のれんぜい様へ入門したれば、「さても、そなたはよい歌よみにならりや、問ひやる事どもは追つてこたよふ」とおしやつて、そのこたへなし。

 契沖の著書をかいあつめて、物しりになろふと思ふたれど、とかくうたがひのつく事多くて、道はかいかなんだを、江戸の宇万伎といふ人の城番のお上りで、綾足が引き合して、弟子になりて、古学と云ふ事の道がひらける。はじめは綾足が「教え」といふについて学んだれど、とんと漢字のよめぬわろで、物とふたびに、口をもじもじとして、其後にいふは、「幸い御城内へ宇万伎といふ人が来てゐる。是を師にして」といふたが、縁じやあつた。江戸人なれば、七年があいだ文通で物とふ中に、五十そこらで京の城番に上つてお死にやつたのちは、よん所なしの独学の遊びのみにて、目があいたと思ふ。

 伊勢の宣長といふ人は大家じやと聞いて、人のつてで著書どもをかりて見たれば、これも私のおや玉で、文学といふ事にはうとうとしく、田舎だましいでやつつける人じや。門人がたんとついたは、物学ばすに高い事いわるるがよさの事故、一人も人物が出る事ではない。ただ弟子をとりべのの烟になるまでほしがられた。そこで、「僻事をいふてなりとも弟子ほしや古事記伝兵衛と人はいふとも」とやらかしたれば、皆にくんだ事そうな。ある人古事記伝を見て、「是は坊主落か」と問はるる。「いや小児いしやの片店商ひじや」といふたれば、「なんでも儒学者に尻もつてもらふていふに見へる。注解のしあゆが仏書の例じや」といふた。この人死んでは、いよいよ火がふいと消えてしまふた。

 市井の庸医の事故、日々東西に走つて物学ぶいとまがない故、漢学はやめて、わづかよむと事のすむ古学者といわれたは、幸福じや。

 歌も文も我が思ふ事を、いつわらうによみきかせうと思ふて、かかん古歌をたんとおぼようとも思はうして、楽な遊びじや。

 独学孤陋といふは、初めより師なしに学ぶ事をいましめたのじや。「此すぢゆけ」と示されて後に、又それよりよい道を見付けて学ぶが、真の好者じや。師を学べば其半徳をといふぞ。その師の半とくはいかにぞ。独学して師にこゆるが道の為の忠臣じやとい。

 

 最後の方は、秋成の自説が展開されている。ものを学には、まず適当な師につくことで、その後は独学で道を究めなければならないとしている。それにしても、死も近づいたころに、思い出すのは宣長との論争のときのことのようだ。自分の考えが正しいという自負はあるが、宣長の説を論破できず、宣長の高慢ちきをやっつけられなかったことが悔やまれるのである。

 遺言書を書いた秋成は、しばらくして、自分を失明から救ってくれた谷川兄弟に手紙を書いて、形見として手習いの十二紙を贈っている。このことは、前に書いたが、この手紙を出したあと、秋成は大坂に出向き、谷川先生の治療を受けているのである。そして、翌年、秋成は鴨川の西にある荷田信美の屋敷に移るのだが、そのころの秋成の様子が安田休圃(大庄屋にして歌道・茶道を能した文人)の『よし野山あらし山日記』に描かれているので紹介する。

 

 南禅寺の門のまへのかたはら、西福寺の玄門長老は、さいつとし我すむ里近き寺にすみたまひ、茶の朋なめれば、とぶらひ侍るに、何くれと茶をものしあへしたまふこそ、いといとけうありてうれしけれ。近きとし此み寺に、上田余斎翁あひすまひし給ふことあり。この翁にただにあはまほしうなんととひ侍れば、今は羽倉氏がりに居けり。いたふ老しれてあやしくぼけぼけしうなりて、人とものいひしらひても、みだりごとのみありて、なめしたることのおほかめれば、なとぶらひそと、せちにいさめたまへれば、うべなひけり。またいへらく、翁は法の道たうとむ人にてもなし。しかあれど、身の終りにはわれにとりまかなひくれよと、かねていひ言つき、何くれのれうまであたへおきぬ。今うつつの世に在りながら、おくつきを蟹の形石もてつくらせ、此寺の垣のうちにすゑおき、世をさらばここにおさめてよといひおきたり。かねて住所も所さだめず、それかれの人の家に養はれゐけり。されど人にまけじ魂に、いかりつよき人なめりとかたらふ。さなん翁のありさまをつばらくにくまなくきけば、身のうつはは世にぬき出にたる人なめりとなんおもほゆれど、老きはまりて心みだれ、ほいをうしなひたれば、さいだち書つなねにし文歌などの心さま、うつせみの世に似ず妙なりと人皆ことあげすめるも、糸竹つづみのしらべの上手といふめるにことならずや。世にかくらふ心のほいをはたすめる人ならましかば、物と我わすれはて、あつしき病にも老きはまりぬるも、何もとつ心むなしかりなむや

 

 西福寺の玄門和尚は、「人にまけじ魂に、いかりつよき人なめり」と秋成を評しているから、そうとう秋成にはてこずっていたものと見える。また、「翁は法の道たうとむ人にてもなし」と断言しているから、浄土宗の和尚に対してさえ、仏法の悪口を言っていたのだろう。唯心尼の前で見せる穏やかな表情とはまったく異なっている。外剛内柔の蟹の喩どおりの秋成である。

 鶉居で松本柳斎と大沢春朔が話しているころ、近くの西福寺では、本堂の炭の熾きていない火鉢の周りに秋成、唯心尼、玄門和尚の三人が坐り、何やら話している。

「これは、ご本尊の阿弥陀様の肩のところに入っていた板切れでござる」

「何か文字が書いてありますわ」

「ここには、法然上人が毎日拝んでおられた仏様を自分が戴いた、と書かれている」

「どなたが書かれたのですか」

「法然の一番弟子の勢観房源智というものだ」

「源智なら、平氏の生き残りではないか」

「さすが翁、一の谷で戦死した平師盛の子で、母が源氏の追っ手からから逃れるために法然上人に預けられていた方だ」

「それでは、このご本尊には法然上人の思いが込められておるわけじゃな。その割にはご利益がないのう」

「翁、和尚の前で失礼ですよ」

「いやいや、いつものことでござる」

「和尚、実は昨夜、本堂の横で寝ていると、聖徳太子の息子が夢に出てきたのじゃ。法然上人の思いが夢に現れたのかもしれん。あまりに儂が太子をけなすから、法然上人が怒って、太子の息子を儂に遣わしたのかもしれんなあ」

「どんな夢でございますの」

「太子の息子は山背大兄王というのじゃが、その大兄王が蘇我入鹿に攻められて、身内の者たちと少数の家来を連れて生駒の山中に逃げ込んでいたが、三、四日と隠れておるうちに遂に食料が尽きたのじゃ。そこで、家来の一人が、援軍を頼みましょう、と進言するのだが、大兄王はきっぱり刎ねつけられたのじゃ」

「どうしてですか」

「家来の進言どおりすれば、おそらく戦には勝てるが、その戦の間に民百姓が苦しむだろう、そんなことはしたくない、と答えられる」

「清い方なのですね」

「太子と違って、あまりに清すぎるのだ。大兄王たちは、山を下りて、斑鳩寺に入られたが、そこを入鹿の軍勢が包囲し、命運尽きたとき、大兄王は、吾が一身を入鹿に賜ろう、と言われて自害されてしまった」

「悲しい夢でございますね」

「夢はまだ続く。大兄王が自害されたあと、それまで付き添ってこられた后や姫君など一族みんな自害されたのじゃ」

「まあ、むごいこと」

「翁よ、捨身飼虎という話をご存知か」

「知らんなあ」

「太子が大事にされていた玉虫厨子の側面にその捨身飼虎の話が描かれている。お釈迦さまの前世の薩埵という修行僧が、飢えた母子の虎を見て、わが身を与えようと崖の上から投身した、という話だ」

「ほとけ様も、とんでもないことを考えられるものじゃ」

「捨身というのは菩薩行の中でも究極の利他行なのだ。太子も、捨命と捨身とは皆これ死なり、と言われている」

「太子が、そんなことを語っておられるか。太子は妻を四人、子供を十四人も拵えられたというから、生臭坊主じゃと思っておったが、そんな潔いことも口にされておったか」