二 よもつ文

 

 しばらくお目にかかっていなようだと思っておりましたら、この忠実な貞光尼が語るのを聞けば、浮世ではもうかれこれ三年過ぎたとか、私がおりますところは春夏というような時間の経過がなく、年月を指折り数えることも致しませんので、垣根に忘草が生えて来はしないかと心配でございます。また、住江の小浜の蜆のように目を開けて見ることがお出来になれないことを思うと、大変つらく、また、口癖のように、いっそのこと海や川に飛び込もうなどと、大げさなことをおっしゃっておられるとか、情けなくて聞き流しておりますが、今にも死神があなたを連れて来られるのではないかと、心配しているのですよ。ところで、養女が言うことを聞かぬと泣きごとを言っておられるご様子、人の心はそれぞれで、顔付きが違うのと一緒だと、いつも教えられていたではありませぬか。世の中に気の合う人はそういるものではございません。指折り数えれば、十四のときから上田家にご奉公いたし、いじめられたりして、辛く思ったことも何度もありましたが、ただ追い出されなかったのを幸いに、長年連れ添っていくことが出来ましたのは、松の操の教えに従ったのではなく、幸せから見放されてしまったようなあなたをいとおしく思っていたからですよ。私が死んだときは深く悲しまれたようで、如何にせよとか我を捨けん、などと歌を詠まれ、たいそう悔やまれたご様子、身に余る光栄に存じます。鬼のようだと人に忌み嫌われても反発なさるあなたのご本性はどうすることもできず、世間にも知られております方に、ひどい物言いをなされましたのは、どなた様も残念なことと思われたのですよ。見えない眼がお医者様のおかげで回復できたのは、思うに、もう少し寿命がおありなる徴ではありましょうが、暗い目でしばらく生きられるかのと思うと不憫でなりません。あなたは小さいころから変わり者などと悪く言われておりましたが、お心に適う世など早々には現れるものではございません。こういうことを申しておると、みほとけに愚痴をこぼすようで、恐れ多いことでございます。この優曇華のようなめったにない機会に恵まれ、つい繰り言をくどくど申し上げましたが、お許し下され。あなかしこ

 

 これは、秋成の妻、瑚璉尼の三回忌のころに秋成が見た夢の中で、瑚璉尼が貞光尼に託して寄越した手紙である。貞光尼というのは、秋成夫婦が大坂にいたころからの知り合いで、瑚璉尼が亡くなった直後に上京し、秋成の身の回りの世話をしていた老婆である。

 去年の秋、日下村の唯心尼の庵から京に戻った秋成と養女の恵遊尼は、この老婆といっしょに鴨川右岸にある荷田信美屋敷の中の狭い寓舎に移り住んでいた。しかし、この冬、この老婆も死んでしまう。ちょうど瑚璉尼の三回忌のころで、霜が凍り付き、風が強く、寒さが身にしみる夜のことで、例のごとくうつらうつらしていると、声をかける者がいる。誰かと思って頭を上げてみると、つい先日死んだばかりの貞光尼であった。貞光尼の老婆はこう言うのである。

「実は、今夜は珍しいお使いでまいりました。今回出向いて行った黄泉の国で、思いがけず奥様にお会いすることができました。それで、いろいろとこれまでのことをお話し申し上げましたら、たいそうお喜びになり、懐かしくて娑婆に伺おうか、こちらにお迎えしようか、いろいろ考えるけれど、国の境があるために自分は行けない。だが、あなたはまだ四十九日が過ぎていないから娑婆に行くことができるはず、どうか出向いて行って手紙を渡してほしいとおっしゃりますので、こうして持ってまいりました」

 貞光尼から手紙を受け取った秋成は、文とともに一首したためて老婆に渡し、妻と仲よくしながら儂が行くまで待っていてくれ、と言い添えた。

 貞光尼は、「今、お粥は誰がたいてくれているのですか、お豆腐もときどきは煮てもらっていますか。大変気がかりですので、一日も早く奥様のところへ来てください」と言い、秋成の返事をもって黄泉の国に帰っていった、と、ここで秋成は夢から覚めた。

「どうされましたか。よく聞き取れませんでしたが、何か寝言を言われていたようですよ」

 いつのまにか唯心尼が傍に来ていた。唯心尼は、貞光尼の訃報を聞いて、すぐに日下村から駆けつけていたのである。この日、貞光尼の初七日の法要が終り、ほっと一息ついていたときである。養女の恵遊尼はさすがに疲れたのか、日の沈む前から隣の部屋で寝ている。

「ああ、また変な夢を見てしまった。コレ様が手紙をくれたのだ」

「まあ、コレ様ですか。やはり三回忌ということでご挨拶に来られたのですね」

「それがな、貞光尼が持って来てくれたのだ」

「貞光さんが黄泉の国のお使いをされたのですね」

「そのとおり。貞光尼が黄泉の国でコレ様に会って、手紙を預かって来たというのだ」

「どんな内容でしたの」

「生きていたとき苦労のかけどおしだったからなあ。いろいろ愚痴っていたぞ」

「そうですか。それで、貞光尼さんはどうされました」

「儂の返事をもってあの世に帰っていったわ。その時、妙なことを言っておった。お粥やお豆腐はどなたが作って下さるのか心配とか何とか」

「そうですか。私もそのことを考えていたのですよ。今まで、ずっと貞光尼さんが作っておられたでしょう。ユウ様はお体が丈夫じゃありませんから、三度の食事の世話など無理でしょう。どうですか、いっそのこと二人で私の庵にいらっしゃいませんか」

「有りがたい。が、それは無理じゃ。せっかく宿を提供してくれている信美に申し訳が立たぬ。それに、今、正親町三条公則様に土佐物語を講じておるのじゃ。当分は京を離れるわけにはいかぬ」

「そうでありましたか。それでは、月に二、三度でも日下の里から出向いてまいりましょう。直接、歌や文のご指導もお受けしたいですし、口述の筆記や、何か文の浄書や書写もお手伝い出来ましょうし」

「そうだなあ。有り難いが、あまりに頼り過ぎるのもまずい。それに、目の具合も最近よくなってきて、かなりはっきり見えるようになっておるから、口述筆記までは今は必要ない」

 ここで、少し説明しておいた方がよいかもしれない。まず、コレ様というのは、もちろん、秋成の亡妻、瑚璉尼のことで、ユウ様というのは秋成の養女、恵遊尼のことである。秋成が、いつも彼女らのことを、コレ様、ユウ様と呼んでいたから、周りの者も皆そのように言うようになっていた。ちなみに、唯心尼は、紫蓮という号から蓮様と呼ばれている。

 次に、荷田信美であるが、伏見稲荷の祠官で、従四位上上総介に任ぜられている非蔵人である。鴨川の西に屋敷を構えていて、小沢蘆庵の門人である。和歌を能くし、国史にもよく通じている。秋成よりも十六歳年少で、唯心尼より九歳年長である。

 また、正親町三条公則は公卿で堂上派の歌人でもある。侍従から徐々に昇進し、このころは権中納言となっていた。このとき若干二十六歳である。歌会の席では荷田信美と同席することが多く、秋成の鬼才についても話題に上ったのであろう、彼の紹介で秋成から古典の講義を受けることになっていたのである。学才があり、秋成の話す内容を湯水のごとく吸い取っていた。正親町三条家の家臣、立野直良の『上田秋成見聞略伝』には、こうある。

 

 吾が君黄門公(公則のこと)初めて召して、緒論を聞き給ふに悉く空言にして一巻の書を携へず、言語流氷の如し。君大いに感悦し給ひ、厚く信を通じ給ふ。秋成も君の厚志の深きを感じて、これより来謁して、論会講釈怠りなし。

 

 さて、肝心のこのものがたりの主人公、上田秋成の説明が抜けていた。某社の国語便覧の説明にはこうある。

 

 上田秋成(一七三四~一八〇九)は大坂の生まれ。幼時から不遇の人生を過ごし、孤高の生き方を貫いた。彼は俳諧を高井几董に、漢学を都賀庭鐘に、国学を真淵の門人加藤宇万伎に学んだ。本居宣長と国学の論争をしたこともある。若いころ、八文字屋本の小説を作ったが、のちに中国小説を換骨奪胎した怪奇小説『雨月物語』を発表し、前期読本の代表作とされている。彼にはほかに、読本に『春雨物語』、随筆の『癇癖談』『胆大小心録』、歌文集『藤簍冊子』などがあり、その強い個性と広い学識とを示している。

 

 これで見ると、やはり、秋成は江戸時代を代表する読本作家で、国学や和歌にも秀でていたということになる。それはそうだが、これは後世から見た評価で、彼が生きた当時は、読本作家としてよりも、歌人、国学者として一目置かれていたのである。しかも、これらの業績は彼の余技であって、本業は紙油商や医業であったし、晩年は画賛や揮毫などの収入で生活していたのである。その点、江戸時代後期、弘化五年に刊行された『古今墨蹟鑑定便覧地下歌人之部』の方が、秋成の本質をとらえている。ただし、この文中、文化七年は文化六年、年七十八は年七十六の誤りである。

 

 上田秋成 浪花の人なり 通称東作 医を以て業となす 後医を廃して和漢の書を大いに研究し 博文強記たり 加藤美樹の浪花に来るを待て門に入る 頻りに古学を修し 終に一家をなし 大いに世に鳴る 平生しばしば其居を変ゆるを以て自ら鶉居と号し 又無腸又余斎と号す 殊に煎茶を愛して中興し 其法則を立る 後年 七十二にして文事を廃し 嬰児の戯れをなして 天然を終らんとす 時に文化七年に没す 年七十八 南禅寺中に葬むる

 

 秋成は、「秋成」、「東作」のほかに、いくつかの号をもっている。「鶉居」は、右の文にあるように住居の定まらぬ自分を、塒をいろいろと変えるという鶉に譬えている。「無腸」は蟹の異名である。秋成は五歳のときに痘瘡にかかり、その後遺症で右手中指と左手示指が短くなっていて、蟹の鋏が連想されるために「無腸」と自称するようになったようだ。「余斎」は三余からきている。三余とは読書に最も適しているという三つの暇な時、すなわち冬・夜・雨のことであり、読書三昧の自分を「三余斎」と称したのが始まりで、短く「余斎」と書くことが多かった。また、晩年、「休西」と署名することが多くなったが、これについてはのちほど触れる。

 さて、今読者が読まれているこのものがたりは、上田秋成の晩年のものがたりである。主な舞台は京都であり、秋成がその極貧生活の中で、いかにして優雅な心を保ちえたかを語っていこうと思う。もちろん、秋成の心の優雅さが維持できたのには、日下村の未亡人唯心尼の存在が欠かせないのであるが、これからおいおい語っていくことになる。

 ちなみに、瑚璉尼の手紙で、「世間にも知られております方」とあるのは、おそらく本居宣長のことで、秋成がどのような暴言を宣長に発していたかを、簡単に以下に記しておく。

 秋成と宣長の論争は、秋成五十歳前半のころで、日本の神話や音韻に関して激しくやりあっていて、秋成はかなり精神的にも疲れたようで、五十四歳で医業を廃業している。この論争については、後年刊行された秋成の『あしかりよし』にその仔細が書かれている。

 この『あしかりよし』によると、藤貞幹の『衝口発』に反論した宣長の書『鉗狂人』に対して、秋成がかみついたのがこの論争の始まりらしい。二人の主張を聞いていると、犯罪の状況証拠をつかんでいる検事(秋成)が、弁の立つ弁護士(宣長)の屁理屈に負けて、犯罪者が無罪放免となってしまった、というような感じだ。

 まず、秋成が、記紀の記載の中で百歳を超える天皇の年齢については信用すべきではない、と言うと、宣長は、百歳を超えるからといって疑義を挟むのは古意に反する、と超然としている。

 次に、秋成が、古事記に「葦原中国悉く暗し」とあることからも小国である葦原中国(ニッポンのこと)の神である日神(アマテラスのこと)が万国を照らすというのはおかしい、と言うと、宣長は、江戸の一店舗でも全員風邪をひいたことによって、江戸中に風が蔓延していることも推量できるのであるから、その論旨は幼稚であり、「日神」という名称そのものからしても、アマテラスが万国を照らすのは明白であり、上田氏は漢心が抜けていない、と強気に反論する。

 さらに、秋成が、「日本を万国より優れているとの論は根拠がない。儒仏の二教は日本の風土になじんでいる。事物は皆自然にしたがって運転するのであって、その勢いに人は逆らえない。私の師(藤原宇万伎)も、往時は往時にして宜しく今世は今世にして宜し、と言っておられる」と言うと、宣長も雄弁に反論する。「私は皇国が万国の上にあるのを世人が知らないことを憂えているのに、上田氏は皇国が万国の上であることを憂えている。嘆かわしい。儒仏の二教についても日本に受け入れられているのは禍津日神(あまがつひのかみ)という災厄の神の仕業である。良いも悪いも全て人力では止められない点は異論ないが、それは自然でなく神の御心によるのである。」秋成は自然に従い、宣長は神を尊んでいて、議論はかみ合わなくなっている。

 このほかにも、古代の文献の読みの清濁についての論争や、神世の時代の歌の詠み手についての論争などもあって、非常に興味深いが、このものがたりとは直接関係ないので省略する。

 このものがたりでは、主に、秋成と唯心尼の情の交わりについて語っていくことになるのだが、この二人の情交に深い影を落としているのが、秋成の亡妻、瑚璉尼の存在である。そこで、瑚璉尼の生立ちについても、若干記しておく。

 秋成の妻は、名を「たま」といい、京都の九条あたりの農家に生まれた。小さいときに植山という家の養女になり、養父母とともに大坂に出てきた。十四歳のときに、堂島の永来町の紙油商嶋屋に行儀見習人として奉公に出た。が、ふつうの使用人ではなく、嶋屋の方でもかなりたまを大切に扱った。たまが嶋屋に行ったとき、すでに秋成は上田家の養子になっていて、たまより六つ年上だから、二十歳だ。宝暦十年、二十一歳になったたまは、秋成の妻になった。

 寛政元年、たま五十歳のとき養母が亡くなり、髪を下ろし、名を瑚璉尼に改めた。寛政五年四月、五十四歳のとき、隣家の幼い四歳の男の子が亡くなり、遺骨を難波の一心寺に納めたあと、六月、夫婦で京に上り、そのまま京に居ついてしまうことになる。そして、四年後、寛政九年十二月、京の知恩院門前袋丁で急死する。享年五十八歳。このときの秋成の嘆きは痛ましい。このときのことが、『麻知文』という歌文に記されているので、以下に記す。

 

 寛政丁巳の冬十二月十五日といふ日、うばらの尼とみの病して空しくなりぬ。こい転び足摺しつつ嘆けども、すべのなさに野に送りて烟となしぬ。柩の内に書いつけたる繰言、

  つらかりし此年月のむくひしていかにせよとか我れを棄てけん

蘆庵の許よりとぶらひ聞ゆ、

  老らくのひとり起き臥す悲しさを我身のうへに思ひこそやれ

答ふ、

  起き臥しはひとりと思ふを幻に助くる人のあるが悲しき

度々聞えられしかど、嘆きのひまなさに皆忘れつ。いかにしてかあらんとすと、知る人の限りは問ひこしも、月日たちては音づるる人もなし。さるべきにこそと思ふ思ふ。

  粟田山あはれと人の問ひこしも跡なき空の風のしら雲

亡き人の書きおきたる物らを、人々のとむらひ草に取り加へて、八条の大通寺の内に実法院と申すに納め侍りき。いともすべなく身を捨てん海川やいづことおぼしめぐらす程に、月日過ぎにけり。心にもあらでとは、実に翁が為に人のの給へるなりけり。平瀬の助道のめの尼に成りて、河内の国の故里にいにて住むが、時々言通はせるに、難波に下りし便に一人とひゆく道の程に、俄に村雨の降り来ていとわびし、

  伊駒根の雲は嵐に吹き落ちて麓の里をこむるあま霧

 

 この文で、「うばらの尼」とあるのが瑚璉尼のことで、「平瀬の助道のめの尼」というのが唯心尼である。夢の中の瑚璉尼の手紙に「如何にせよとか我を捨けん」とあったのが、秋成が柩の内に書きつけた繰言の歌の一節であったことが分かる。

 それにしても、何故、秋成は、妻を亡くした悲しみを抱え、一人、友人の未亡人である唯心尼を訪れ、しばらくの間その庵に滞在したのだろうか。この疑問の答えを求めて、このものがたりは進んでいくことになる。

 

 ここで、天皇の年齢について触れておく。

 天皇の年齢については、秋成と宣長の考えの違いがはっきり分かる文章が残っている。秋成のことばは『雑文断簡』(天理図書館蔵)から、宣長のことばは『古事記伝』から拾った。どちらの意見が科学的でどちらの意見が教条的か一目瞭然である。

【秋成の考え】

 神代がたりの中におかしきは、この紀に、火々出見のみことの御いのち五百八十歳、又神武の巻に、天孫降臨より人皇のはじまりまでを、百七十九万二千四百七十余歳とは、誰が指かがめてかぞへとどめし。又、暦書のいまだここに来たらぬいにしへに、いかでか数を知りてかぞへし。

【宣長の考え】

 此ノ年ノ数の、いみじく多く久しきを、近き世の、なまさかしき人の心には、信られぬことに思ふから、種々の説あれども、皆漢意のさかしらなり、ただ古ノ伝ヘのままに心得べし。