きょう古い日記を見ていたら、一通の手紙が出てきた。二十年近く前、僕の元会社の同僚の親父さんが死んだとき香典を送ったのだが、その香典返しの品に同封されていた手紙である。
彼の父は北朝鮮で警察に勤めているときに終戦を迎え、シベリアに連行され、四年間の抑留生活を送り、その後無事帰国した。朝鮮に残された彼の母は、終戦の翌年、朝鮮半島の三十八度線を越えて宮崎の地に帰った。逃走中に肌身離さず持って帰った写真帳の裏表紙に、彼の父が書きつけた文章があった。その文章を、彼が香典返しの品に同封したのだ。細かい字で書きこまれていて、そのときは読まずに放っておいたのだが、きょう出てきたのも何かの縁だと思って読んだ。シベリア抑留から帰国後、奥さんから聞いたことを記してある。以下に全文記しておく。
“此の写真帖は一般家庭の写真と其の経歴を異にして、左の如き事実の為に汚れ居るを知られ度。一九四五年(昭和二十年)八月十五日、朝鮮の威鏡南道威興府大和町一丁目に於て停戦を知る。海外に及ん日本の國力は、一度に断絶せられ、海外に進出する者の唯一の頼みの綱は断たれた。此の全く無力化された我々の前には立騒ぐ鮮人と進駐し来りしソ連軍が大きくのしかかって来た。明日をも保証されない我々は戦々競々として落付かず毎日不安な日々を送る内、九月二日早朝、自分はソ連軍の為に抑留され、残りし妻キミエは大腸カタルにて死の一歩手前の子供すみ子の看護と、何かと物色し来るソ兵と鮮人から家財を守る必至の努力を續けた。其の為徹夜は打續き、病児を抱いてベッドの下、床下に寝るのは毎日の如くであったが、キミエ又発疹チフスの為床に付き、身体の自由を失ゐ、高熱は續き、親子は枕を並べて生死の堺をさまようこと幾日、収入の道は断たれ、治安は外國人の手に女子供のみ取り残された不安さ、淋しさは堪え難き苦痛で、正に死に勝る苦は此の事か。看護不十分の内、十二月九日、遂にすみ子は他界す。極寒の冬は遠慮もなく押よせ、降り積る白雪の深みと共に生活苦は益々加り、豆腐のおからさへ買ふ金に困り空腹をかかへてすごす日さえ度々あった。為に煙草売り、だんご売りに雪をふみしめて身体の續く限り出たが、北鮮特有の寒は家に居てさへ寒いが街道の立んぼは骨にしみる寒であった。苦労の中に昭和二十一年の新春を迎ゆ。昨年までは親子三人睦まじく迎へた正月も今年は只一人、然も餅等思もよらぬ。白飯にも事欠き淋しい正月であった。生くる為には無理から無理して街頭の商ゐを續けた。為か三月十日生まれた二女嘉子は一週間にして乳はバッタリ止り、おもゆを作るにも米は無く、苦心に苦心を重ねたるも、一月足らずで早や姉の後を追って行った。其の時、北鮮は極寒の為土地は凍る。威興の山に幾千と並ぶ同胞の墓地の中に二人の子供を埋めるのは容易な事ではなかったが、幸ゐ同郷の鶴一家の手傳ゐで埋葬し得た。子なき后は孤独の淋しさはヒシヒシと身にせまり幾度か子供の後を追うべく決意せし事ぞ。然し何時ヒョッコリ帰り来るかも知らぬ夫に此の子供達の死を傳うべき責任に、又知人に慰められつつ他の在留邦人と共に辛うじて生き抜く内、四月二十日内地帰還の命あり。一行二千名。一人にて背負ゐ切れぬ様なリュックサックを負うて家を出たが、汽車に乗る時「さらば威興よ又来るまでは」と同行の子供の歌う声を聞いては正に断腸の思であった。噫子供ありせば、夫ありせば。此の子供の墓は永久に忘れられ、誰も参らぬものか。只涙のみ。威興より高原まで汽車は一日走ったのみ、后は不法にも下車を命ぜられ歩く事となった。以后十幾日、山に寝、野を歩き、乳までくる様な川を幾度か決死に渡河し、幼き子供を連れ歩行に苦しむ知人の為に其の人の荷物まで背負うてやり、追ゐ来る村々の鮮人の目をのがれ、ソ兵にかくれして、助けかばゐ助けられつつ、只一途に南へ南へ。おくれる者は其のまま。五・六歳の子供にも又歩け歩けと足に任せて先行の人を追うのみ。辛うじて三十八度線は突破し得たれど、産後の無理がたたって、遂に京城病院に収容さる。其の間度々の検査や捨売り、又知人に多くの荷物を與へたるも最後まで肌身離さず持ち帰りし物こそ此の写真なり。
昭和二十五年三月 主白“
彼の父は北朝鮮で警察に勤めているときに終戦を迎え、シベリアに連行され、四年間の抑留生活を送り、その後無事帰国した。朝鮮に残された彼の母は、終戦の翌年、朝鮮半島の三十八度線を越えて宮崎の地に帰った。逃走中に肌身離さず持って帰った写真帳の裏表紙に、彼の父が書きつけた文章があった。その文章を、彼が香典返しの品に同封したのだ。細かい字で書きこまれていて、そのときは読まずに放っておいたのだが、きょう出てきたのも何かの縁だと思って読んだ。シベリア抑留から帰国後、奥さんから聞いたことを記してある。以下に全文記しておく。
“此の写真帖は一般家庭の写真と其の経歴を異にして、左の如き事実の為に汚れ居るを知られ度。一九四五年(昭和二十年)八月十五日、朝鮮の威鏡南道威興府大和町一丁目に於て停戦を知る。海外に及ん日本の國力は、一度に断絶せられ、海外に進出する者の唯一の頼みの綱は断たれた。此の全く無力化された我々の前には立騒ぐ鮮人と進駐し来りしソ連軍が大きくのしかかって来た。明日をも保証されない我々は戦々競々として落付かず毎日不安な日々を送る内、九月二日早朝、自分はソ連軍の為に抑留され、残りし妻キミエは大腸カタルにて死の一歩手前の子供すみ子の看護と、何かと物色し来るソ兵と鮮人から家財を守る必至の努力を續けた。其の為徹夜は打續き、病児を抱いてベッドの下、床下に寝るのは毎日の如くであったが、キミエ又発疹チフスの為床に付き、身体の自由を失ゐ、高熱は續き、親子は枕を並べて生死の堺をさまようこと幾日、収入の道は断たれ、治安は外國人の手に女子供のみ取り残された不安さ、淋しさは堪え難き苦痛で、正に死に勝る苦は此の事か。看護不十分の内、十二月九日、遂にすみ子は他界す。極寒の冬は遠慮もなく押よせ、降り積る白雪の深みと共に生活苦は益々加り、豆腐のおからさへ買ふ金に困り空腹をかかへてすごす日さえ度々あった。為に煙草売り、だんご売りに雪をふみしめて身体の續く限り出たが、北鮮特有の寒は家に居てさへ寒いが街道の立んぼは骨にしみる寒であった。苦労の中に昭和二十一年の新春を迎ゆ。昨年までは親子三人睦まじく迎へた正月も今年は只一人、然も餅等思もよらぬ。白飯にも事欠き淋しい正月であった。生くる為には無理から無理して街頭の商ゐを續けた。為か三月十日生まれた二女嘉子は一週間にして乳はバッタリ止り、おもゆを作るにも米は無く、苦心に苦心を重ねたるも、一月足らずで早や姉の後を追って行った。其の時、北鮮は極寒の為土地は凍る。威興の山に幾千と並ぶ同胞の墓地の中に二人の子供を埋めるのは容易な事ではなかったが、幸ゐ同郷の鶴一家の手傳ゐで埋葬し得た。子なき后は孤独の淋しさはヒシヒシと身にせまり幾度か子供の後を追うべく決意せし事ぞ。然し何時ヒョッコリ帰り来るかも知らぬ夫に此の子供達の死を傳うべき責任に、又知人に慰められつつ他の在留邦人と共に辛うじて生き抜く内、四月二十日内地帰還の命あり。一行二千名。一人にて背負ゐ切れぬ様なリュックサックを負うて家を出たが、汽車に乗る時「さらば威興よ又来るまでは」と同行の子供の歌う声を聞いては正に断腸の思であった。噫子供ありせば、夫ありせば。此の子供の墓は永久に忘れられ、誰も参らぬものか。只涙のみ。威興より高原まで汽車は一日走ったのみ、后は不法にも下車を命ぜられ歩く事となった。以后十幾日、山に寝、野を歩き、乳までくる様な川を幾度か決死に渡河し、幼き子供を連れ歩行に苦しむ知人の為に其の人の荷物まで背負うてやり、追ゐ来る村々の鮮人の目をのがれ、ソ兵にかくれして、助けかばゐ助けられつつ、只一途に南へ南へ。おくれる者は其のまま。五・六歳の子供にも又歩け歩けと足に任せて先行の人を追うのみ。辛うじて三十八度線は突破し得たれど、産後の無理がたたって、遂に京城病院に収容さる。其の間度々の検査や捨売り、又知人に多くの荷物を與へたるも最後まで肌身離さず持ち帰りし物こそ此の写真なり。
昭和二十五年三月 主白“