80年前の8月14日、米軍機が町上空で大量のビラを撒いた | よかもん人生のブログ

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昭和20年8月15日、この街に大量の焼夷弾を落とす・・・。

今日中に郊外へ避難せよとの宣伝ビラだった。

 

甘木近接地に「大刀洗飛行場」が有った。

 

終戦でもう町中は大騒ぎ~~家毎に、もてる限りの荷物を持ち、

 

郊外へ避難の渦~大家族の我が家(11人家族)も郊外へ向かったが、

 

母親の妹家族が住む家には既に大勢の親戚が逃げ込んで居て、

 

多すぎて受け入れられないと拒否された由。

 

父は憤慨し決断し我が家の防空壕で全員一緒に焼け死のうと決定。

 

玄関脇の防空後に家族全員が入り、今日が最後の食事だと、

 

有るだけの御馳走で家族だけの歌を歌いながら朝を迎えた。

 

朝に成り玉音放送を聞いていた父が、戦争は終わったと大声を上げた

 

もう町中は大喜び・バンザイ~バンザイと歓喜の声が轟いた。

 

夜は提灯行列が出たそうだが、女子供は危険だから出るなの声。

 

甘木警察は武装解除され、管区施設には米軍の憲兵隊詰め所出現。

 

甘木にも不穏な朝鮮人達が無銭、飲酒食など勝手放大。

 

困った料亭を筆頭に2組のやくざ組織(にしと組+浅原組)に警備依頼・・・朝鮮無頼共は静かに成ったそうだ。

 

我が家の前の道路は繁華街で昔から石畳が敷かれていた。

 

誰がどの組の組員かは,袢纏で一目瞭然・・・。

 

地元民である、我が家族には誰もが親切だった。

 

それから始まる食糧難時代~~食料確保に命がけの苦労をした。