戦中戦後は食糧難だった・・・産めよ増やせよの国策から、
我が父母も8人の子だくさんで、食料確保に奔走した筈❕❔。
父が歯科医だった関係で戦時中は特別配給が有ったようで、
小麦粉や白砂糖まで有った・・・そしてカステラを焼ける丸い鉄製の
容器が有り、カステラの作り方やレシピは父が調べ年数回焼いてくれた。
生きているウナギやタコや貝類魚類など患者さんが持参したようだ。
お陰で筆者の味蕾(みらい)は発達し生涯の職業に役立った。
お陰で筆者の舌は鍛えられ小学入学後、学食の脱脂粉乳やコッペパンが,不味く感じ、成長しなくなり6年生卒業時140cmしかなかった。
中学に入り、ペタルブレ~キと言う中古の自転車を買い与えられ、
その後、行動半径が急増し食糧確保に走り回り、驚くなかれ,
中学3年間で28cm身長が伸び
167cmの通常身長に伸びた。
川魚よタニシ、沢蟹やアメリカザリガニなど片っ端に確保し食糧とした。
とくにアメリカザリガニは、田圃の水瓶として、直径数mはある今で言う
ヒューム管が田圃の端に深く埋められていた場所を発見・・中には
水が溜まっていて、アメリカザリガニがうようよいた。
バケツと長い柄の網を持って引き返し、思う存分ザリガニを捕れた。
勿論ザリガニはカラ揚げにして家族の腹に収まった。
その後数回同じ獲物を同じ場所で得たが、猫がザリガニを捕り損ねたのか、土管内で溺れ死んでいて、その後その場所へ行くのを止めた。
イナゴは九州では食せずだったが新潟では今でも食べるようで
道の駅などで売っている・・・味を覚えたが産地が書いて無く辞めた。
金銭的には自立させられ、中学時代は300円・・高校時代は500円を
与えられ、学用品以外の付き合いはその金の範囲代で限定。
素うどん、素そば、が20円の時代、ラーメン、チャンポンは50円もした。
続きは後日。