終戦後のお祭り騒ぎが終わった後に、本格的な耐乏生活が始まった。
我が家には家族の分だけ鉄兜とガスマスクが備えてあった。
ガスマスクのガラスは擦るとよい香りがする匂いガラスだった。
生活費の糧に消えたのか?ガスマスクは2個が残り、その2個も筆者の遊びでガラスが割れた。
大人たちは生活の為に目は血走り、子供たちはガキ大将が統率した。
各家庭に配給キップが配布され、何処へ行くにも配給キップ持参だったそうだ。
米の代わりに。サツマイモの配給が良く行われていた。
我が家ではメリケン粉(小麦粉)を捏ね、中にサツマイモを角切りにして、、サッカリンで甘みを強化し、
蒸かして、石垣饅頭と称し、代用食としてよく食べさせられた。
父は子供達(姉5人+男兄弟3人))に食べさせろと自分は栄養失調となり、治療された由。
その父母も93歳で天寿を全うし、仏壇の中から、このブログを覗き見している。