父母の思いでパート2に続き、父母の思い出を書く。
「京城歯科大学沿革史」に若き日の父の面影が書き残されている。

道を挟んで幼馴染だった母を伴って、赴任したようで、
教授の薦めた縁談を断っての、いとこ結婚であった。
教授の怒りを買っての左遷??反骨精神旺盛な父の人柄がわかる。
当時の朝鮮に歯科大学(医専)は無く、京歯付属医院創設は
日本の援助で作り上げた学校であったようだ。
「思い出の手記」の中に京城散歩の項目があり、
「鯨塚」は以前紹介したが、
飛行発祥の地
洗剣亭・・・小西行長の事
城壁めぐり・・・東大門の城壁めぐり(当時から南大門は登頂禁止)
(門の中に女)妃・・・李大王の妃・・・刺客の事
白松の事
パゴダ公園・・・加藤清正伝説の逸話
落書・・・この一文を写真で紹介します。




朝鮮赴任時代は、8人兄弟の姉二人が育った環境で裕福だったようだ。
祖父が請け判で地位財産を失い、失意の内に瞼の祖父は、
東京の長男宅に身を寄せたが、病に倒れ望郷の思いが強く、
父に帰国して欲しいとの強い希望を伝え、
甘木で一緒に暮らしたいとの祖父の願いを叶えるべく
父は教授を辞めて帰郷したその日に東京の祖父が他界したとの知らせが有ったとの事・・・魂は父の帰郷を喜んでいた筈です。
その父が開業し祖父が残していた借財を全部払い終えて他界した。
子沢山(8人)だった母の献身的姿は脳裏に焼きついています。
そんな事とは露知らず、反骨に暮らした子供時代を反省しています。
父を受け継いだ反骨精神旺盛だった幼少時代・・・父に良く逆らった。
仏壇の脇の真っ暗な押入れに性懲りも無く何度も閉じ込められた。
その都度、母がとりなし出してくれた。
盂蘭盆会にお供えされた「おりょく膳」が食べたくて食べたくて、
弟と二人次の朝まで待ち通しかった。
「おりょく膳」の下段に餓鬼奴の為の皿盛が有ったが、
手を出す事は厳禁だった。
「餓鬼奴の皿盛」は、流灌頂の川辺で焚かれる荼毘の火で燃された。
今住んでいる場所では、
盆の13日に迎え火を焚かぬので何となく物悲しい。