今からおよそ40年ほど前、癌の芽は痔の出血に始まっていたようだ。
鮮血が便器に迸り、私の直後にトイレに入った妻が気が付いた。
それから、痔との長い付き合いを市販薬で制したのだが、
約20年程前、鮮血の代わりに便に黒い斑点が入りだしていた。
大腸癌の知識も抗がん剤の危険性の知識も合わせ持っていた。
10年ほど前、便が細りだして来たのも放置していた・・・痛みはなし。
どうせ一度は死ぬものと、悟ったような気分でいた、自画自賛。
死への恐怖感はまったくといって無かった。
そして便に鮮血が混じりだし、いよいよ覚悟して、妻と、
この世の思い出旅行と勝手に決めて、九州最南端まで旅行した。
書庫・「夫婦旅行&ドライブ」に書いてある。
その時点で私が(癌と自覚していた事を妻は知らぬ)
4年半程前の12月、この世の別れと覚悟して手術に臨んだ。
まったく動揺なしの穏やかな気分でした。
早期発見が当たり前の現在、大腸スコープが入らない大腸がんは、
就任したての若い執刀医には嬉しい経験提供でした。
そこの所は、書庫・「大腸癌、闘病日記」に詳しく書いてある。
今、「大往生したければ医療にかかわるな」と言う本を読んでいる。
著者・中村仁一 幻冬舎新書
読みながら、わが意を得たりと喝采を上げている。
癌はあの世からのお迎えの使者・・・納得して手術を受けたのです。
抗がん剤不適合と診断が下り、迎えは早いと使者は戻って行った。
思考すれば、あの世からのお迎えの灯りが、
手術前まで必ず写真に写り込む、たまゆら(オーブ)だと飛躍する。
手術後、病院内を写しても、ものの見事に「たまゆら」は消えた。
お盆参りの墓地でも花火を写しても、「玉響=オーブ」は出ない。
玉響があの世からの使者であると言う因果関係は証明できないが、
実体験上、そうで有ったのだろうと確信している。
生前戒名はすでに頂いた。
死を達観するには、修行が足りないが、生に執着は無いつもり。
デジタル写真に、玉響=オーブが写り始めたら再来訪と思いたい。
昨日は潅仏会だった事をすっかり忘れていた。
世の移ろいも、過ぎ行くままに、ハイさようならと逝きたいね。