あの日あの時、
土曜日の夕食にと地元では有名な蕎麦屋の駐車場に停車した。
その直後襲ってきた震度6強の揺れに度肝を抜かれた。

目の前の舗装道路は大きく波打ち、
割れて隆起したり沈下したり。
道路脇にある下水管の丸い蓋が見る見る内に、数10㎝も盛り上がってきた。
まもなく1年中越地震←の記事を見てください。
停車している車の天井に家族3人が思い切り頭をぶつける初めての経験でした。

その日の雲は↑の加工した写真のような異常さで、
前日から横一列の雲で空一面が覆われていた。
何か雲の出方がおかしいねと妻と話はしていたのだが、
まさかこんな地震が来るとはそのとき夢にも思わなかったのです。
地震の前兆は前にも書いていますが、
飼育していた鯉や金魚の異常行動でした。
地震直後からの数日間は全てのライフラインが途絶して、
生き延びる事だけが関心事でした。
ペットの犬たちと家族3人、車の中で寝泊りしエコノミー症候群が
足の親指に出始めて、3日以降は車中泊を断念し車庫に寝ることになったのです。
大中の地震が連続する中で、家の中は食器の破片や、
家具の倒壊で足の踏み場もなかった。
地盤が良かったのか、家の損傷は殆ど、でなかった事は不幸中の幸いでした。
不思議なもので家族の絆は返って深まりました。
地震で揺れるさなか国道17号も普通関越高速道路も不通なのに、
塾関連で東京本部の事務局員が、福島県を大回りし危険を承知で、慰問品を届けてくれた事に深く感謝しています。
九州の親族と電話が通じたのは3~4日後でした。

家庭の電話も携帯も繋がらぬ中、優先的に繋がった写真の場所にあった公衆電話から安否情報を短く伝え他の親族にも伝えてくれるように頼みました。
後ろにも大勢の人が並んでいるので個人の長電話は許されません。

この写真を撮ったのは、しばらくたって東京から見舞いに駆けつけてきた息子です。
左側の石垣も無残に壊れていたものが再建された後でした。
この石仏は右手の蓮華台からすっ飛ばされてここに鎮座したままでした。
奥の鐘楼は再建されました。
私も妻もブログのために写真を撮る気さえ起きない状況でしたからね。
あれから6年、1年間で1000回もの揺れを体験し、
震度5などは平気で過ごせるようになりました。

その為でもないのですが、中越沖地震での震度5強は割りと余裕で対応できました。
息子夫婦は東京住まいだし、大地震への心構えと備えは怠りなく
して欲しいと願っています。
大地震。明日は貴方たちの地元かも知れません。
ゆめゆめ怠りなく巨大地震に備えてください。