今年、母の13回忌を迎える。
ブログ記事を遡っても、「母の思い出」の関連記事は数少ない。
親不孝である。
その中で、5~6歳の頃か?母に手を引かれての記事を書いていた。
ブログを書き出したばかりの頃の記事である・・・訪問コメントは無い。
戦前戦中を通して8人もの子供を生み育てた母は仏になったが、
母の残した言葉は、父の残した言葉と共に私の中で生きている。
父の一言;
人は喉もと過ぎれば熱さを忘れる、
事に臨み見返りを求めるな。
母の一言;
母の一言;
胸に手を当て正直に生きればそれで良い。
この言葉が、「よかもん」を名乗る私の中に生きている。
政治記事は父の言葉が、癒しの記事は母の言葉が生かされている。
終戦後は、父の収入だけでは食えず、母の内職により育った。
ひもじさを、肌身に沁みて育った。
母は我慢して、子供であった私達を食わせてくれた。
私のわがままで父が私を仏壇横の押入れに閉じ込め折檻すると、
母は父の目を盗んでそっと出してくれた。
明日食べる米が無いと、泣く母の姿を見て育った。
内職で曲がった背中を肩をトントンと叩いてやったのがせめてもの親孝行であった。
金銭面の苦労は掛け通しで、
就職し、甘木を去る日、母は泣きながらバス停まで見送りしてくれた。
何でそげん遠くまで行くとね・・・新潟は雪国ばい・・・
チッキで送った布団袋に丹前が入れてあった。
新潟で働き出して直ぐに倒産、金銭面の負担こそ掛けなくなったが、
母の苦労に報いる送金もままならなかった。
まして帰省をする事など、安サラリーマンでは指折り数える位しか記憶に無い。
再就職し結婚し、子供が出来た頃、バブル景気で給料が倍増した。
毎月の生活費を兄弟姉が協力し合い1万円ずつ送れるようになった。
そんな中で父の古希の祝いとして全国に散る兄弟姉が相談し、
「父母へ感謝の贈り物」として夫々の責任において、
父母を案内したことを記事に書いている。
私も今年、古希を迎えるが、
私の子供達は、そんな苦労は知らないで育った。
母は、彼岸からどんな姿で我が家の実情を見ている事だろう
母に1度だけ1本の赤いカーネーションをあげた事が有る。
ビックリし泣いて喜んでいた。
今は亡き母を思うと、親孝行が足りなかったと悔やんでいる。
今日は妻にどんなケーキを贈ろうか