今日は頭髪(10月20日)の日とか・・・髪の黒かった時代を忍び、
昨日の記事から思い立ち、昭和58年に書いた旅日記を紹介します。
それでは時間を遡って伝説の旅へご案内しましょう。
【会津伝説の湖へ】出発・昭和58年、10月,2日、AM7時
帰着・昭和58年、10月,2日、PM7時
帰着・昭和58年、10月,2日、PM7時
雨のため1週間遅れの出発となった。
東山は朝靄に煙り、前日の雨を忘れたような快晴は、「わらじ会」の門出に相応しい。
県境のルート252は行き交う車も少なく専用道路並みの快適さだった。
紅葉にはイマイチの、山道を一気に田子倉湖まで飛ばす。
浅草岳の登山口を過ぎる頃から、右手下に広大な田子倉湖が見え始めてきた。
今を盛りのススキの穂影を透してから眺める湖は、靄に霞む遠景と共に、

朝日を受けて水面をキラリと光らせて見せてくれた。

朝日を受けて水面をキラリと光らせて見せてくれた。
唯一言、絶景である。
見晴らしの良い所にルート252開通の碑が建つ・・
「会越の窓開く」・・・田中角栄首相の銘が入っている。
車を降りてしばし眺める、観光バスではこの感激を望むべくもない。
マタギの里を湖底に沈めたまま奥会津の山並みに良く映える。

早朝ながら、さすがに貯水量日本一を誇るダムサイトにはアベックや親子連れがチラホラ。

早朝ながら、さすがに貯水量日本一を誇るダムサイトにはアベックや親子連れがチラホラ。
湖岸よりの場所では岩魚釣りであろうかボートを浮かべ釣り人が楽しんでいる。
アキアカネの乱舞を眺めながら、会津路を下る。
只見町塩沢の河井記念館を探しあぐねて通過、「継(つぎ)さ」と会うのは次の機会として、
伝説の沼、沼沢沼(湖)へ向かう。
沼沢湖は、沼沢火山によるカルデラ湖で、流出する川のない所から魚影は少なく、
湖はあくまで澄み切っていた。


「会津の伝説によれば、昔ここは霧が窪と呼ばれ雌と雄の大蛇が住んでいて、 村人は恐れて近寄る物もなかった。 時の領主、佐藤十郎義達はこの大蛇を退治すべく、沼へ矢を放ち戦った末、一度は大蛇に呑まれたが、 義達の兜に付いていた1寸五分の円浮檀金の観音像の法力で、大蛇を裂き退治した・・と書いてあった。
この後村人が住みはじめ、堀内村と言っていたが、後、沼沢村と改名し、現在、金山町字沼沢と呼んでいる。
湖水発電のダムにより、夏は流水、冬は余剰電力により、水を湖水に入れ沼の水位を保っている。
湖水への案内標示板に従い、ルート252を右折。

5分で沼沢湖に着く予定であったが、途中栗林が続き、道路の至る所に栗が落ちていた。

5分で沼沢湖に着く予定であったが、途中栗林が続き、道路の至る所に栗が落ちていた。
一時停車して栗拾いと洒落る。

座椅子を放り上げて、栗を落としている内、座椅子が栗の木に引っかかりチョン。

座椅子を放り上げて、栗を落としている内、座椅子が栗の木に引っかかりチョン。
アケビもチラホラ目に入った。
湖畔でまず目に付くのは観音像であった。東屋や貸しボートもあったが、人影はまばらで、

湖水にはヒメマスの養殖柵があり、魚影も見えどこまでも澄んでいた。湖畔の赤松の回りには、

湖水にはヒメマスの養殖柵があり、魚影も見えどこまでも澄んでいた。湖畔の赤松の回りには、
色とりどりの茸が生えていた。
シメジ、アワタケ、キクラゲ、等、時ならぬ茸狩りに時間を取られたが、
これも人影の少ない山上胡の恵みである。
この旅はこれから「会津ころり観音」へと続くのだがまずはこれまで。
青春時代の1ページでした。
写真は古い写真をそのままスキャンした物です。
追伸; 記事を修正していたら何故か記事全体がが左に寄りました???です。