娘がどんな風の吹き回しか珈琲を入れてくれた。
カップは2年前の中越地震で生き残った唯一のセット品、「庵地焼」です。

この「庵地焼」は私が若かりし頃、現地(新潟県安田町保田)に行って注文して作ってもらった物です。

当時から美人三姉妹が焼く庵地焼は有名で、注文してから現物到着まで、9ヶ月ほど掛かりました。

この「庵地焼」は私が若かりし頃、現地(新潟県安田町保田)に行って注文して作ってもらった物です。

当時から美人三姉妹が焼く庵地焼は有名で、注文してから現物到着まで、9ヶ月ほど掛かりました。
当時は全て手作業で、面取り製品は人気が高いためほとんどの品が注文生産でした。

この面取りコーヒー茶碗も遅くなることを納得済みで制作を依頼した物でした。

この面取りコーヒー茶碗も遅くなることを納得済みで制作を依頼した物でした。
中越地震の大揺れにも耐えた一品で今に愛用しています。
安田町観光協会のサイトです、→庵地焼き案内
当時からドライブ好きで、この時も、豪農巡りをしていた時に立ち寄ったのです。
新潟を代表する観光コースの一つが豪農巡りコースです。
その中で昭和期、新潟一番の豪農は、新潟市、沢海に有る今の「北方文化博物館」です。
昭和21年、米軍による農地開放政策で地主豪農は解体され農地は小作人に捨て値で分配されました。
日本を代表する1000町歩豪農の一つが此処で、
遺構保存のため当時の党首(伊藤文吉さん)の英断で家屋敷を新潟市に寄贈し、
今の財団法人北方文化博物館として観光客に公開され今に至っています。
遺構保存のため当時の党首(伊藤文吉さん)の英断で家屋敷を新潟市に寄贈し、
今の財団法人北方文化博物館として観光客に公開され今に至っています。
此処の館長でもある、その伊藤文吉さんが、
シャツ1枚の姿で博物館内の池で落ち葉の掃除をされていました。

シャツ1枚の姿で博物館内の池で落ち葉の掃除をされていました。

観光ツアー客は誰も気づく人はなく、
顔を見知っていた私たち3人連れは声を掛け写真を撮らせて貰いしばらく話しをしました。
顔を見知っていた私たち3人連れは声を掛け写真を撮らせて貰いしばらく話しをしました。
執着を捨てたその姿、物腰は、新潟県に来て初めて出会えた「大人物」でした。
今、存命であればかなりのお年でしょう、ブログで紹介されてあの世から苦笑されているかも知れません。
北方文化博物館は大名屋敷にも匹敵すら家屋敷の広さがあり、庭の見事さは一見の価値があります。
娘が入れてくれた珈琲から思わぬ昔語りとなりました。
昭和58年に私が書いた旅日記、「会津伝説の湖ところり三観音への旅」を今、読み返しています。