親子の確執は古今東西どこにもある。
我が家とて例外ではなく、息子も娘も思い通りには行かん。
私もそうであった、・・・今は亡き父母に感謝する年齢となった。
私が生まれる遙か昔、父の残した遺稿がある。
昭和初期、昭和1~2年頃の父、若かりし頃〔20代後半)の思い出文である。
これが、「京城歯科大学沿革史」の中に寄稿文として残されている。
その文の中に秀吉の朝鮮戦争の話題が書いてある。
京城歯科医専〔今の歯科大学)専任教授として東京歯科医専〔今の東京歯科大学)から派遣され、
父が今の韓国〔朝鮮)に住んでいた頃、その住居が「加藤清正」本陣跡であったという。
父の遺稿文より抜粋;
第二話 京城漫歩より
私〔父)は歴史に興味を持ち歩き回ることが好きである。
朝鮮史学会から朝鮮講座が出版され、真に面白く、あかずに読みふけっていた。
日鮮に関連のある記述は両国の史書を参考に、現実の地勢と比較し解説してあった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、加藤清正は、最後に南大門外に陣し、
自ら本陣を私の住居地岡崎町の高台、中腹、大銀杏の樹下においたとの解説には一層の親しみを覚え、
そぞろ歩きはやめなかった。
【鯨塚】の項では朝鮮での清正と行長のことが、
日曜、家族3人〔小さい長女と家内)で漢江にモーターボート乗りに出かけた時の話として書いてある。
漢江入道橋の泳登浦側すぐ上流に船着き場があり、筏も漁舟も貸船も、ここから出る。
この漢江南岸上流鷺梁津に到る線に清正は二日間渡河し得ずして大群を停止している。
最初清正の進撃はものすごく、破竹の勢いで威鏡北道〔最初の字は違う)まで席捲し、
二王子まで進出した形跡有りと史家は見ている。
一方小西行長の大群は、平壌から新義州へ向かう途中、支那よりの援軍と戦い敗走し始めている。
この敗北の知らせを受けた清正は、急遽、漢江の線まで十日間で転進したと書いてあるが、
今と違ってほとんどが徒歩での戦いであり、行軍である。
どの道を通ったか知らないが、十日で威鏡北道から大群を移動させたことは全く驚く他はない。
この船着き場の上手に【鯨塚】はある。
その碑の裏側に次のような意味のことが書いてあった。
「明治41年、この地に子鯨迷入し、土地の漁師総出でこれを追い捕獲せり。
よって供養のため、塚を作る」と
よって供養のため、塚を作る」と
山口県下青海島の尼寺に行けば、この地で捕獲せられたたる鯨に、それぞれ戒名を与え、
供養し、その数も積もって千余に及ぶとか。
【ここに迷入せる子鯨よ、なんじ不運にして捕獲せられ、人を喜ばす、生あらば成仏せよ】 喝!
引導を渡してモーターボートに乗った・・・と父が書き残している。
若かりし頃の父の気概が感じられる文である。
機会が有ればまた続編を書くつもりです。