ブログわずか1年少々で500記事となりました。
記念日に当たり「フイクション」ながら、
平和を愛し和を持って尊しとした邪馬台国の物語など読んで下さい。
因みに検索で「日めくりカレンダー」を開けたら偶然にも今日は「行雲流水」が出ていました。
行雲流水とは・・・・風に流されるようになんの執着もなく物に応じ、 ことに従って行動する。修行する僧を雲水という。と書いてありました。
フワフワと行き交う雲に心奪われ流れゆく水の流れに悠久の時を重ね、
お気に入りの「行雲流水」のTシャツを着込んで書き込んでいます。
それでは故郷甘木の「卑弥呼物語」を始めましょう。
遙かな時を遡った昔、卑弥呼の属する邪馬台国一族は九州甘木朝倉の地に根を下ろし栄えていた。 大和一族も出雲一族も邪馬台国の一員であった。 邪馬台国は高い先端技術を持つ集団で、 中でも卑弥呼一族は星の動きから天候の変化を読み取ることで農業の時季を知らせることが出来た。 甘木朝倉一帯を支配下におき30猶予の国と連携し邪馬台国は栄えた。 従兄弟の出雲大国主一族と共に平和な暮らしを楽しんでいた。 その暮らしを一変させたのが大和民族の台頭であり、 争いを嫌がった大国主一族はかねてより開発していた今の島根県方面へ渡っていった。 後を追うように卑弥呼一族は瀬戸内海を船で移動しつつ機内方面へ向かった。 卑弥呼一族を慕う各部族は卑弥呼一族を快く迎え、 我が一族の誇りと卑弥呼一族との繋がりを喧伝し口伝で伝えた。 次々と邪馬台国が誕生していった。 機内に入った卑弥呼一族は、後を追ってきた大和一族と血族が進み、 もはや区別する物はなくなり大和一族に同化された。 奈良を中心とした地名と甘木地方に残された地名の一致はその名残である。 出雲一族も国譲りを快く行いここに大和朝廷、日本国家の礎が誕生した。 大和一族は天皇が支配する所となり、歴史は神話の時代から大和朝廷の時代を経て平安時代へ流れて行く。 朝鮮半島の内乱で新羅百済が危うくなり応援の兵を送ることとなり、 大和朝廷は甘木朝倉の旧地に前線基地の本営を作った。 「斉明天皇」自ら前衛基地を朝倉の地に造営された。それが今に残されている「木の丸殿」後に建つ公園である。 滞在数日にして病に倒れ「中大兄皇子」(後の天智天皇の悲しみは如何ばかりであったか)は、 戦局も利あらず戦いなかばにして戦を中止、大和の地(今の奈良県付近)へと帰られた。
「菅原道真」で有名な「太宰府天満宮」にほど近い「観世音寺」は「天智天皇」建立です。
甘木地方に残された地名と奈良方面の地名の整合性は驚嘆に値する。
最近発見された甘木の「平塚川添遺跡群」は打ち捨てられたままとなり、
塵芥が積もり又積もり、何時しか卑弥呼の生まれ育ったその場所までが人の記憶から忘れ去られた。
その遺跡後は当時の日本には初めて、3重に堀を持つ大規模な集落跡である。
その規模は吉野ヶ里遺跡を凌ぐほどだが、発見が遅れたことで注目度は低い。
[我が地こそ邪馬台国なり]と甘木朝倉は謳い上げている。
甘木では毎年盛大に[邪馬台国祭り]が行われている。
出雲を代表する神、大国主命を祭る日本初の神社と言われている、
大巳貴神社(オオナムチジンジャ)は、甘木に祭られている。
日本人全員に卑弥呼一族の血脈は流れている。
血の一滴に平和を謳い上げながら。