東京タワーが建設中の頃、私は子供から大人への坂道を登っていた。
昭和33年頃の東京下町を背景とした映画、「ALWAYS三丁目の夕日」を妻と観た。
この映画は「第29回アカデミー賞最優秀賞、12部門受賞」で感動に笑い涙しました。
地方と東京の違いこそあれ、そこには私が歩いてきた軌跡がつかず離れず映像の中にあった。
町は希望に溢れ、テレビは垂涎の的、
初めて電気屋の店頭に飾られた白黒テレビの前には黒山の人だかりが出来ていた。
私も勿論その一人。
公団住宅はあこがれの的で、その文化生活が紹介され、
三種の神器(テレビ、洗濯機、電気冷蔵庫)を持つ事が庶民の目標であった。
田舎には学習塾など皆無で、親の言葉は聞かばこそ、
学校から帰るな否や鞄を投げ捨て外へ飛び出し遊びほうけた。
時には親の手伝いの為、足止めを食い、渋々使いなどさせられた。
偶然見つけた里山の塹壕(ざんごう)の跡地探検は、秘密基地として一握りの仲間にしか知らせていなかった。
長さ数㎞もある塹壕は、本土決戦の為日本軍が設営した物。
親たちでさえ知らない場所の一つであった。
体は大人に近づいても頭の中は子供のままで、
同級生の女子生徒が何で「黒いブルマ」をはいて運動するのかも判らずにいた。
毎月学校を休む女子のいるのが不思議で生理の事など思いもつかなかった。
映画、「博多っ子純情」そのままかそれ以下であった。
小学低学年時代に、仲の良い女の子と親の目を盗み、お医者さんごっこをしていたのにである。
学校帰りの野原や小川は、生き物たちの命が溢れ、赤とんぼなど一目数千匹から数万匹が群れ飛んでいた。
蛙の合唱は煩すぎて眠れないほど、蝉の声で話し声まで聞こえづらいほど。
その頃の蛍刈りは親子や恋人同士のそぞろ歩きで、暗い川岸でも大にぎわい。
勿論蛍刈りに伴う悪戯もしたし、された。
尾籠な話だが、野グソをたれて蛍を逆さに差し込み、隠れて観ていると人がそれと知らず掴む。
それを見た仲間は蜘蛛の子を散らして逃げ去り、翌日は学校でその話題が駆け回る。
あんな、そんな、へんな、時代を思い出に持つ世代が私ら年代です。