今日はお盆である、何時の頃からか、家庭から父親の存在が薄くなった
親を誇りに思い、語り継ぐべき環境が核家族化で失われ、間違った民主主義がはびこった為である
民主主義は、正しいのだが受取る側が自己中心に解釈した為であろう
誰にも先祖があるが、祖父の事はかろうじて解っても、祖祖父の事は、ほとんど解らない
日記でも遺言でも良い、今すぐに書き残すべきだと思う、30年後、50年後にそれが生きてくる
例え生きなくとも「やるべき事はやった」と 満足感は残る、子供はその態度をどこかで見ている
幸い私には父の残した、「想い出の手記」と表書きされた遺稿がある
墓石の銘から元禄11年まで解る、父が先祖の墓石を拓本し年代順に書き込んである
父が亡くなって初めてその価値を知った、無くして解る親の恩である
その父が「私から見た」祖祖父のエピソードを書いている
一例だけ紹介する
ある時祖父22~23歳の頃、町全体と喧嘩し町民が家に押しかけてきた
祖祖父は入り口に頑張り
「一歩でも入り俺の息子に指一本でもさわってみろ、たたっ切ってやる」と
刀を小脇に、微動だにしなかったと書いてある
これだけの気概が、今の自分や、父親達にあるのかは、なはだ疑問である
しかし、こういう歴史を踏まえ、今の自分があると解ったとき
馬鹿なことは出来ないと本気で感じた、しかし父母はもういない
この事実を我が子に伝える義務がありブログと言う手段を、お借りしている
書きながら涙がにじむ
祖祖父や祖父の、残した物は、灯籠や鳥居に残された寄贈者として、銘が今に残っている
子供が気づくのはいっの事だろうか?
お盆に際し、ささやかな先祖供養のつもりで書いてみた。