太平洋戦争が終結して、5~6年経った頃でも、子供には自由な時間が多かった
親たちが生活に必死で、子供の行動を管理出来なかったからだ
その為か子供の行動半径は、徒歩ながら今よりも広く、小学生でも7~8キロはあった
大刀洗飛行場は、単独行動では少し遠かったが、5~6人がまとまると、親も許可してくれた
広大な飛行場跡は、昆虫の宝庫であったが、自分たちの本当の狙いは
機銃弾やその薬莢と爆弾の破片、
飛行機の残骸に時たま残されている磁石を探すことにあった
不発弾が危険な物と言う認識は少しはあったが、ただの宝物である
拾った物は取り上げられるため、親にはナイショが友達全員の取り決めだった
それらを、そっと学校に持ち込み、先生のいない時に見せ合って自慢した
ある時授業中にポケットの中で不発弾が暴発、友達の一人が大けがをした
その時を境に危険な物は全て提出させられ、飛行場跡地、行きも禁止となった
自分たちはガッカリしたが、次々と遊びを考え出すのも当時の子供の特徴であり
花火の火薬を取り出し「こうもり傘」を利用した鉄砲まで作った、
くわしい説明は差し控えるが、2~3メートル離れて5分板を打ち抜く威力があつた
これも、けが人が出たため警察の介入があり、禁止
危険な遊びは収束した
その後大人の間では「ジャックナイフ」の流行などがあったが、それも禁止となった
社会に良識が残っていた時代である。
「英霊の眠れる跡地、今はなく、キリンビールの、工場が建つ」