お一人様鎌倉薄暮は2時40分スタートにつき、家でゆっくりしていたら 雨で一日順延になったという京都葵祭りのニュースが流れ 上皇、上皇后さも見物されていた。今日は良い天気だし 絶好の行列日和だろう。
ちょっと思い出して古いアルバムをめくると いるいる。この4人で葵祭りの先頭を歩いたのはこの年の5月だったか?
とすると55年も前のことかよ。言っとくけど、青ペンの書き込みはオレじゃなくて自称殺し屋だから。
左から二人目のチンピラ?が 八瀬から通ってたウエサワ。
八瀬という地名は、大昔の弘文天皇元年(672年)の壬申の乱の際、背中に矢を受けた大海人皇子がこの地にかま風呂を作り傷を癒したことから「矢背」または「癒背」と呼ばれ、転じて「八瀬」となったというし八瀬の釜風呂は有名だろ?知らない?
比叡山の麓のこの八瀬の集落をもっと奥にいくと、大原の寂光院や三千院がある。
鞍馬の火祭りの夜に やはりマージャンをしていて、もう終わってるだろという夜中に うしろに写ってるウエサワの中古のコロナに4人乗り真っ暗闇の道を遡って出かけ、道の両脇に テンテンと火祭りのあとのかがり火の燃えカスを見て 帰りのず~っと下ってる道をエンジンをニュートラルにしてどこまで降りて行けるか とかバカなことをやってた。
葵祭に出るようになったのも、ウエサワの家の屋根裏部屋でテツマンのあと みんなのヒマそうな顔を見たウエサワに誘われたもので、八瀬の人々というのは 昔から御所の庭の掃除をしたり、天皇の大事には駆けつけて棺をかつぐ役目を担い、自らを鬼の子孫とか八瀬童子と呼んで 昭和20年まで租税を免除されてきた特別待遇の村落だったという。
大正天皇の棺を担ぐ八瀬童子。
というわけで、葵祭りも この村の人々に列方を導く役目が与えられてたんだが、当時出る人数が少なくなって 友達を連れてこいと言われてたんだろ。
烏帽子の下のこめかみのところに みずみずしい葵の小枝を差して 都大路を歩いたのは
鬼の子孫 | ゆきさきはボールに聞いて (ameblo.jp)
遠い昔のハナシだ。
「いい天気ですね~」と、そろったみんなが70歳オーバー。
写真はアウト6番ショート145ヤード。
お先にのパーでグリーンを離れ、後ろに連なってるのは鎌倉石のもろい崖。
「ゴルフは楽しいですね」と それぞれがマイペースで、
「ここの老人会は80名くらい いるんですよ。隔月でコンペをやってたんですが、コロナが始まってから30人くらいこなくなって・・・どうですか?」
う~~ん老人会ですか・・・もうちょっと名前、どうにかならないんですかね~?
「正式には延寿会っていいますよ」
あの、スタートのところにある時計を寄付したところか。柱のプレートに名前が入ってたな。
まあまだ時期尚早と入会はエンリョして パー3つにダボ2つの44は、幹部の面目は保った?