小村雪岱。個性なるものを信じて | mizusumashi-tei みずすまし亭通信

小村雪岱 挿絵原画

 

ヤフオクで偶然見かけた(戦前の作であろう)挿絵の原画を二点落札しました。下絵の上に当てて写し描いたと思われる薄い薄黄色の鳥の子紙に、画線は細い面相筆で描かれベタは墨で丁寧にツブシが入っています。サインによる記銘はありませんが、間違いなく小村雪岱の原画です。

 

小村雪岱 挿絵原画

 

上図が全体画像です。「オール讀物號」の印判が押されており、右上に「四 十一枚目 原寸」「二 原寸 三十三枚目」と記され、こちらにはレイアウトらしき挿絵配置図が描かれています。挿絵の天地は17.5㎝ほどですので、連載物の一部で掲載雑誌はB6〜A5版と思われます。

 

タッチから「雪岱調」確立以降の作品と思われ、ざっくりと昭和8年前後に描かれたものでしょう。いずれも雪岱らしく丹念に描かれていて、彼の盛期のものに間違いありません。手がかりがいくつか残されていますので、初出誌を探してみようと思っています。大層な拾いものでびっくりです。

 

大越久子編:小村雪岱(2014)東京書院   

特集小村雪岱:芸術新潮(2010.02)新潮社

 

鏑木清方や雪岱の唯一の弟子ともいえる山本武夫が、師の「春信うつし」を正当化するあまり、かえって疑似性という問題点を際立てていますが、草森紳一は『イラストレーション(1977)すばる書房』において小村雪岱の『日本橋檜物町(2006)平凡社』にある「私の描く人物には個性がありません」を引き

 

雪岱は「春信体に仮託することによって、自らの世界をより内示し開示する」似ていることが問題なのではない。戸惑うのは私たちの近代性である。個性なるものを信じて、私たちはかえって個性を消失してしまった。

 

現代イラストレーションの宿痾というべき「個性」「表現」にこだわるあまりに、私たちが失ってしまう内実こそが大切なのではないか? 他人との差異にこだわるあまり、自らの内実を失うことこそが問題なのではないか? と問うている。