奥村晃作「ただごと歌の系譜」 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
みずすまし亭通信-戦時画報01
国木田哲夫(独歩)編集:戦時画報第38号 M38.2
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戦時画報(白襷隊の松樹山突撃):満谷国四郎

数年前から短歌に親しむようになった。暇つぶしに具合がいい。だれかに習うというのも面倒なので、手当り次第に短歌本を読んでは、これは面白いこれはつまらないと手本にした。歌論本も幾冊か読んだが、くだくだしいものはお断りした。そうした中で気になっていたのが、和歌と短歌の違い、いつから和歌→短歌になったのかということだったが、歌人奥村晃作「ただごと歌の系譜」を読んでいたら、そのことについて判りやすく説明されていた。

和歌の衰退期にあった江戸中期の小沢蘆庵(1723年—1801年)が革新の人であったらしい。蘆庵は30歳頃、定家末流の堂上和歌の最大家元である冷泉為村に入門し、筆頭弟子としてその名を知られたが、独自の歌学に目覚め「日常を詠う(ただごと歌)」を主張したことで破門、養子に入った家からも絶縁されたが、いたって穏健なものだったらしい。記紀や万葉集などは、いわば「ただごと歌」を多く詠ったわけだから、古今集新古今集以来の余韻隠喩の歌(和歌)からの回帰にあたる。

万葉集は当時(日常使われていた)口語体で詠われたわけだから、短歌で日常を詠ってなにが悪いというところなのだろう。その蘆庵の歌

 賤の女が門の干し瓜取り入れよ風夕立ちて雨こぼれ来ぬ

賤の女(しずのめ)。「だれかいませんかぁ雨が降ってきそうですよ」今詠ったごときの日常短歌です。さて、情報紙に掲載しようと買ったのに間にあわなかった「戦時画報」から、小山正太郎が監修にあたった時事画のほとんどにサインがないが、2枚目は珍しくMithutaniと読める。満谷国四郎のことだろう。