
浅草パノラマ館制作のための画縞:日清戦争平壌の戦

小山正太郎先生:不同舎旧友会蔵版(S.9)
小山正太郎といわれてもご存知の方は少ないだろう。長岡藩の藩医の惣領(長男)で12歳で戊辰戦争を迎え敗戦、政治家たらんと上京したものの画技を見いだされて川上冬崖に師事、東京芸大の前身・工部美術学校の第一回生でフォンターネージに認められて助手に抜擢された。その後、浅井忠などと十一会→不同舎で在野にあって洋画を教えた。教育畑では岡倉天心と、洋画壇では黒田清輝との意見対立などがあって、結局は傍流の人であった。残された作品も少なく、一般に「洋画教育界の恩人」的な位置が充てられる。
小山が川上冬崖(おそらく五姓田義松も)とともにわが国で石版印刷の草分けであり、国木田独歩が編集者として日露戦争を報道した「戦時画報」の時事画を不同舎の弟子とともに担当した。この不同舎の面々はフォンタネージの教えを「写生」を合い言葉に広め、彼等はこの教えを国元に帰って教えたことで、全国的な水彩画(写生)ブームが起きる。これは、推測として正岡子規の「写生句」へ飛び火し、自然主義を標榜した独歩などが押し進めた言文一致体(口語体)運動に連動したのではないか。と私は考えた。
そんなことを情報紙の来月号特集「小山正太郎の近代」というテーマでまとめていたところ、偶然、金子一夫「近代日本美術教育の研究/明治・大正時代」に、小山と子規の共通の友人である中村不折を通して、両者は「写生」で交差シンクロしたのではないかと憶測する一文を見つけた。となれば、俳句の近代化は案外西洋画的な把握や描画法が引き金になったのかもしれず、この視点での子規評論は読んだことがないから、情報紙特集はある意味新たな視点の提起になるだろう。
まぁ、疑義を提起したところで誰が読むのかなとは思いますが、面白がってくれる読者が3人いれば本望でありまする。ただ、こうした渋系の情報紙がいつまで続けられるのかなぁ(と、溜息)。読者の嗜好からかなり乖離しつつある。心配。