小島政二郎「食いしん坊」の中林宗衛さんを訪ねる | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
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2008年12月03日ブログで小島政二郎「食いしん坊」本文中、長岡縁故の人物中林宗衛をとりあげたが、午前中川口町にある中林家をお邪魔してきた。本陣跡の碑が建つ家周囲を拝見する予定でいたが、ご親戚の方にご同行していただいたのに気を強くして、訪うてお話をうかがってきた。それによると、宗衛さんにはお子さんがおられず当時新潟市にいた弟夫婦が養子に入られたが、それも宗衛さんが亡くなられた後ということである。

生前より養子の話はいただいていたが、新潟市から川口旧家に入るのに躊躇があったそうだ。その数年後には弟さんも亡くなられ、その奥さんが高齢ながらお元気でいろいろとお話がうかがえた。ただ、先の地震で家屋・蔵すべてが倒壊し、宗衛さんの写真一枚残らず無くしてしまわれた。複写させていただいた写真はわずかに残された宗衛さんの葬儀の写真で、その写真に写された遺影のみが現存する。濡れそぼったものを乾かしたものだということで状態が悪い。

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中林家は江戸時代から続く旧家で現在まで20数代を数える。家の周囲には石垣が廻され入口奥に「御本陣跡」の石碑が建つ。昔で言う“旦那様”のお屋敷で、仏間には新田義貞後裔による文政年間に揮毫された書もかかげられている。文書・什器のたぐいは早々に町に寄付されたそうで、閲覧の機会が持てるかも知れない。宗衛さん所蔵の文人の墨蹟類は定かではないとのこだが、確かに小島政二郎の書き物は見たことがあるとのこでした。見つかるでしょうかね。

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この人物は長岡工業高校の教頭さんを長らく勤められたそうで、学閥などに阻まれてついに校長になれなかった。温厚な紳士で、眼鏡越しにちょっと見上げるという癖から「メジロ」というあだ名があった。川口でも努めて外交するということもなく静かな暮らしぶりだった。強い探求欲があったわけではないのですが、本の数行から縁もゆかりもない人の暮らしぶりが少し知れてきました。不思議なことだと思えます。生きている人たちとはなかなか仲良くなれませんが、故人のつきあいは段々上手になってきます。